もう二度と会えないだろう、と思った。それはほとんど確信に近い。ふしぎな話だ。好きだと思っている。彼の事を、私はとても好ましく思い、臨也に向けるのとは全く違うけれども、彼の事をもっと知りたいとすら思っている。友達として付き合っていく事ができたらどれだけ素敵だろう、とも。
 でも、雰囲気や、言葉にならずに消えていくその沈黙の間から、態度、目線、その全てで。それは叶わない事なのだと悟った。こうして、池袋で巡り合えた奇跡以上のものは、もう起こらないだろう。

 彼と私。彼と臨也。臨也と私。ひとと、ひと。
 ビー玉が斜面を転がっていくのに似ている。一度動き出したらもう違う方向へと進む事はできない。どこかで障害物があって少し方向を反らせたとしても、戻ったりやり直す事はかなわない。

 静雄、と遠くから彼を呼ぶ声がする。彼はすぐに振り返って、今行きますと返事をした。窺うようにこちらを見るのが、小さな子供や犬猫のようで、寂莫に襲われた胸とは裏腹に私は微笑んでいた。もう一度のありがとう、は、さようならと同じ意味で。平和島静雄は、じゃあな、と言って背を向けた。白と黒、金色の髪の毛、背の高い男はよく目立ったが、何回か瞬きをしているうちに私は彼の姿を見失ってしまう。

 彼は決して、またなとは言わなかった。私も、連絡先を教えてほしいとは言えなかった。そういう運命のふたりなのだ、と、都合のいい言葉でごまかして少しだけ首を上に向ける。冬の日差し、雲ひとつない空は青というよりいっそ白い。らしくないけれど、臨也が見ているような気がした。こんな私たちの邂逅を、ばかげてると笑っているかもしれない。もしくは、なーにシズちゃんと仲よさそうにしてるのさ、と子供みたいに拗ねているかもしれない。

 臨也。
 新羅のマンションの方向へ足を進めながら思う。臨也。私は死後の世界なんか信じてないし、臨也がそんな精神世界を馬鹿にしていた事も知っている。でも、あなたが今、天国と呼ばれるような場所にいる事を当たり前のように信じているし、――できれば、そこであなたが幸せであるようにと祈ってすらいる。この世界があなたに与えたものより、ずっとずっとたくさんの幸せがそこにあればいい。死んだ人間の幸せを祈る。無意味かもしれない、自己満足であり自己慰安にすぎないだろう、それでも。

 誰かを想う事は、独りよがりで苦しくても、どこか幸福に満ちている。


* * *


 新羅のマンションについたのは、陽が暮れ始めた時だった。夕焼けの中で浮かび上がるまっしろな外壁のマンション、1年前の4月にも来た、それ以外にも臨也とふたりで何度か遊びに来た場所。去年の4月に来た時は、暗闇の中にそびえたつこの建物が怖くて仕方なかったのに、ひとりぽっちで訪れる今の私には、赤く染まった建物はなぜか懐かしく見えた。思い出をあさっても、もう、涙は出ない。あの時と同じように新羅に迎え入れられても、私は微笑む事も出来る。

 あいにくセルティは仕事が入っててね、と、新羅は私を招きいれながらそう告げた。どうして私がいる時じゃないんだ、どうして仕事なんかいれたんだ、って逡巡してるセルティもかわいかったけど、から始まったいつもの愛の言葉。私はそれを、微笑を浮かべながら黙って聞いていた。出がけのセルティへの告白はお決りの言葉で締めくくられ、それと同時に新羅の顔は、熱に浮かされた恋人のそれからふと冷静なものに変わった。私はただ新羅を見つめる。新羅の整った顔に、安堵の表情と微笑が浮かぶのを見た。


 「。……元気に、なったんだね」


 その眼に満ちた慈愛が、余りにも眩しかった。

 眼の周りが熱い。何を思う間もなく涙が溢れた。映画を見ている時に流れるような、しずかで、何の意図も熱も持たない、ただただ透明な涙。ひとりで閉じこもっていたら、ずっと解らなかっただろう。誰かが自分の事を案じ、自分がこうして笑える事を喜んでくれるという事に対して、筆舌に尽くしがたい暖かいものを感じた。泣き笑いのような表情で、ただ一言だけ出てきたのは、今日、既に万感の思いを込めて告げた言葉だった。


* * *


 はあのあと、仕事を大急ぎで終わらせて帰ってきたセルティといつものように――臨也が死んでしまう前によくしていたように、和やかに会話をし、いくつか笑みをこぼして帰って行った。波江さんがいろいろと事後処理をしてくれる予定になってるの、合鍵は持ってるけど一応帰ってみる。そう言ってが出て行ってしまうと、とたんに室内は静かになった。冷える廊下から、暖房のきいたリビングへセルティを先に向かわせて、ひとり玄関の壁にもたれて眼を伏せる。昔に臨也と交わした会話を、少し、思い出していた。

 「まるで子供と人形みたいだね」
 「……何が」
 「君とだよ。君が飽きたらは捨てられる、はそれを恐れてる。……臨也」
 「説教なら、生憎だけど聞く気はないよ」
 「説教、というより、単純な疑問なんだけどね。どうして君は、そんなに関係を明確にする事を恐れてるんだい」

 君がもう少し素直に好意を伝えられたら、それは君にとってもにとっても今よりずっと楽で、幸せだと思うけど。何より、言えずに苦しむ現状からはお互いに解放されるだろう? 指摘すると、臨也は皮肉を唇の端に浮かべて笑った。

 「明確にしてしまえば、はもう逃れられなくなる。俺はそれが怖いんだよ」
 「臨也?」
 「大体、」


 「いつか捨てられるかもしれない、そう怯えてるのは俺のほうだ」


 臨也は血を吐くようにそう言った。

 絶対に言えないし、言うつもりもないけどね。下手な意地の張り合いだと思う? そうかもしれない、俺は、状況でも環境でもなく、が自分から俺を必要として、――連絡して、帰ってきてと言ってくれるのをずっと待ってるんだよ。言えない状況に追い込んだのは他でもない自分なのにね。解らないんだ、新羅。俺だってもっとうまくやれると思ってた、でも……。

 「新羅。これが、万人が望む愛だと言うのなら、こんなもの、俺は持ちたくなどなかったよ」

 ――あれほど軽薄に愛を振りまいていた男が、こうまで愛に打ちのめされている。
 どうして、と、尋ねる事はもはや無駄な事のように思えた。独善的な愛に振り回されるこの男の、愚かとしか言えない選択を責める事など誰にも出来やしない。愛から愚かさを奪って、いったいそこに何が残るだろう。愚直で盲目的でただひたむきで気恥ずかしい、それが愛であり、遠くの場所から幸せを願うだなんてきれいごとを、どうしたら言えるだろう。ましてや、この自分が。愛する人がのぞむただひとつの真実を覆い隠してまで、ただ傍にありたかった、馬鹿な男のうちのひとりなのだから。

 「臨也」
 「だから、説教はいらないって」
 「おたがい、馬鹿だね」
 「……新羅と俺を同列にしないでくれる?」


 鮮やかに蘇るのは、いつもの皮肉めいた嗤い顔ではなく、弱り切った微笑。
 どうしてだろう。死なんて、それこそ数えきれないほど見てきた。心痛むものもあった、何も感じない他人の死も、たくさん。今まで泣いた事など一度もなかったのに、どうしてだろう、臨也。どうしていま、こんなにも胸が痛むのだろう。


 誰よりも幸せを願っていたのは、あの二人の幸せを願っていたのは、あの日背を押した自分なのかもしれない。


 冬の冷気に満ちた玄関先。電気も点かないそこに、PDAの灯りが光った。ゆっくりと背後に向き直る。
 いま、自分が胸に抱いているような安堵を、臨也も感じていたのだろうか。

 ――それを、あの男は、幸せだと認めていたのだろうか。


* * *
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