簡単な事だ。 誰もが明日にでも大切なひとを失う可能性を持っている、それが、私には今だったというだけだ。それは何も特別な事じゃない。誰にでも起こりうる事で、誰もが現実の可能性として想像できない未来、決して相対化する事のできない出来事。失う対象が恋人や家族の誰であれ、誰もがこの痛みにいつか直面しなければならない日がくる。そして、誰もがいつか、乗り越えて生きていかなければならない。 私が乗り越えなければならないのは、きっと、今なのだ。 「。私が帰ったら、あなたは、外に出なさい」 いつまでも気持ちを切り替えず、この部屋で悲しみに浸り思い出に縋っているのは簡単です。でも、それでは、あなたはちゃんと生きられなくなる。そうなる前に、早く、外に出るだけでいいから出なさい。 ……あなたは、あの男がいなくなった後でも、生きていかなければならないのだから。 そして今、私は池袋の駅前にいる。 別にどこでもよかった、それこそ家の近くの高層ビルの通りでも、どこでも。でも、新宿では臨也との些細な思い出がありすぎて、どうしてもひとりで行く気にはなれなかった。そこにちょうど、心配した新羅からの定期的な連絡が入ってきたので、今から池袋のマンションを訪ねてもいいかを聞いた。彼の返事はもちろん諾、私が外出するほど元気になったのならばよかった、と、患者の経過を見守る医師のような、穏やかで落ち着いた声を出すので私は思わず少しだけ笑った。 たくさんの人に心配され、たくさんの人に見守られて私は今日も生きている。臨也がいなくても。 池袋の駅前はいつもと変わらずに混み合っていた。流れに逆らわず東口へ向かい、サンシャイン通りを目指す。若い子たちの内容のない会話、擬音と笑い声と歓声、店員の呼び込み、街宣車。ミニスカートと場違いに見えるスーツ、学生らしい男の子のプラスチックバック、赤と青の点滅、色に満ちた看板、その彼方のざわめき。 ――輝く黄金と鋭い眼光、白と黒の衣装、怒号と悲鳴の入り混じった騒音、砂ぼこりの向こう。 「平和島、静雄……」 こんな街で、声が届くはずもないのに。 出来すぎたタイミングだった。名前を呼ばれた事に反応したかのように顔をあげた彼の視線は、間違いなく私を捉えていた。驚きに少しだけ見開かれた眼、そのすぐ横でかすかに流れ落ちる赤。時が止まったようにも思えた。先ほどまでうるさかった全ての声が聞こえなくなる、永遠にも感じられるほどの長い時間。 私が彼の事を知っているのは何も不自然な事じゃない。彼は人々の噂になるほど有名だし、何より臨也から彼の話を聞く事だってあった。それに対して、彼が私の事をこうして驚きをもって見つめる理由はない。彼が、覚えていない限りは。 平和島静雄と私は、過去に一度だけ会った事がある。だがそれも、新羅の家のリビングでたまたま遭遇しただけで、会ったといえるようなものでもなかったし、私はともかく彼の記憶に残るような出来事ではなかったように思う。会話を交わしたわけでもない、平凡でなんの特徴もない女。一度見ただけのそれを彼が覚えているだなんて、私にはとうてい信じられなかった。……それとも、殺したいほど憎んでいた男の知人と紹介された女であれば、覚えたくなくとも忘れられないものなのだろうか。 彼が我に返ったら、すぐに逸らされるはずだったその視線は、だがいつまでも外れる事はなく絡み合う。不器用なことに私たちはふたりとも、どうしたら視線が外せるのか解らないでいた。その眼をしっかりと見つめながら、ひとつの言葉がひらめいては消える。私は運命を信じない。私は神を信じない。でも、これは。 これは、私と平和島静雄に遺された運命なのではないだろうか。思い出を拾い集めるための、そして、遺された人間がともすれば慰めあい、また新しく関係を築き、明日を見つめて生きるための、果たさなければならない課題のひとつ。ばかげた考えだと自分でも思う。それこそ出来すぎている。でも、どうしてもそれを否定する事はできなかった。この時ばかりは、信じざるを得なかった。 彼の長い足が、こちらに向かって動き出すのを見てしまっては。 どれほど長く見つめあったところで、彼が一度眼をそらせば私たちの遭遇はなかったものとして消えてしまうはずだった。そちらのほうが私たちの関係からいえばずっと自然な事だ。でも、冬の光を反射するまばゆい金色の髪が、こちらに向かって来るのを見て、私は、どうしてか少しだけ微笑んだが、実のところ、泣きだしそうだった。 奇跡と呼べるものがこの世に存在するのなら、きっと、今この瞬間の事を言うのかもしれない。目の前の彼の存在自体が奇跡かもしれない。そしてそんな彼と私が、ひとりの人間の思い出を共有しようとこうして偶然めぐり合う、それを、奇跡以外に何と言えばいいのだろう。 時に世界は眼が眩むほど美しい。 ――例え、それを教えてくれた人が、もう世界に存在しなくとも。 目の前に立った平和島静雄のその姿は、ため息が出るほどに整っていて、臨也が彼に対し、異常な執心を抱いた理由がなんとなく解ったような気もした。煙草を吸っているだけで美しいと思わせるこの男が、自分の事を殺したいほどの情熱をもって見てくれるのであれば、彼に対して非人道的な振る舞いしかしなかった臨也の行動の原因も少しは解る。そう思わせるだけの何かがあった。だからといって臨也が今まで彼にしてきた事を肯定するわけではないが、いま、私が代わって謝るというのも何かが違う気がした。何より、もう、臨也はいないのだ。今さらと言われてしまえばそれまでだった。 話したい事なら、きっとたくさんあるはずなのに、そのどれもがふさわしくないように思えて、結局何一つ言葉は思い浮かばなかった。彼のほうも、自ら近寄ったのはいいが、言葉を探しあぐねているように見えた。沈黙を紛らわすように、煙草をせわしなく口にするのが少しだけおかしくて、小さく息を吐こうとした、まさにその時。 「……この前」 白い煙と共に言葉が押し出される。この前…っつっても2ヶ月ぐらい前の話か、あいつが池袋に来て、たまたまかちあった事があってよ。そう言ってまた煙草をくわえるので、私は黙って続きの言葉を待つ。どの言葉ならば、この話をできるだけやわらかく伝える事が出来るのか、それを煙草を吸うその短い時間で必死で考えては探しているようのだろう。私は静かに待った。唇が開く。薄い、綺麗な唇だと思った。 「いつも通りに喧嘩になって、俺はいつも通りあいつに死ねって言った」 「……それで?」 「いつもならあいつは、俺を殺してから考えるとか、俺が死ぬのが先だとか何とか言うが、その時は違った」 それがシズちゃんの今際の言葉だっていうんなら、慈悲深く聞いてあげたいところなんだけど、 ――帰りを待ってる人間がいるんだ 「だから、まだ死ねない。……あいつはそう言って、笑ってた。それが、あいつと会った、最後だ。」 何を言えばいいのか、解らなかった。胸に鈍いナイフが突き立てられたかのように、じわじわと心臓のあたりが痛み出す。嬉しいのと、悲しいのと、苦しいのと、全ての感情がぐちゃぐちゃになって襲い掛かる。これはおそらく、歓喜だ。容量を超える歓喜に襲われて無防備になったところに、次いで、その歓喜を伝える相手がいない苦しみに苛まれて、何も言葉が出てこない。ただ下唇を噛み締めて、体から漏れ出そうとする何かを抑える事しか私には出来なかった。その姿を見て、目の前の彼の顔が少しだけ歪む。こんな話して、悪ィ。彼はそう言った。私はただ首を横に振る。何かを言ったら、こんな街中でも構わずに、大声で泣き出しそうだった。 臨也。 あなたは私にとって昴だった。先が見えない暗闇の中で、ただひとつ方向を指し示すように強く輝く昴、それが臨也だった。ひとりでは決して来れなかった場所へと誘ってくれた、こんな、言葉を失うほどの歓喜も、俯かなければやり過ごせないほどの苦しさも、臨也と出会わなければきっと知らないままだった。 例えいなくなっても、死んでしまっても、あなたがくれたものは、私の胸の中で輝き続ける。 それが、ふたりが同じ時間を過ごすという事の意味であり、証なのだろう。 息をひとつ吸い込む。もう涙は出ない。代わりに胸を満たすのは、苦しいほどのしあわせだった。 ――臨也の事を知っていてくれたのが、伝えてくれたのが、この人でよかった。臨也の死を喜ぶような人ではなく、こうして胸の内にしっかりと抱えて、大切に背負って行ってくれるだろうこの人で本当によかった。そう思えた。胸の中で、たくさんの想いが弾丸のような速度で行きかってははじけて消える。最後に残った言葉はありきたりでつまらないものかもしれない、でも、これ以上の言葉など、思いつかなかった。 「……ありがとう」 これ以外に、一体何と言えただろう。 ←BACK * NEXT→ |