まったく信じられない事だが、涙はすぐに涸れた。感情は泣くほうに傾くのに、もう体に水分が残っていないとでもいうように、涙は出ようとはしなかった。最終的には悲しいから泣いているのではなく、泣くためになんとか涙を出そうとしているだけになり、そこまでして頑張って泣こうとしている事に気付くと馬鹿らしくなった。泣いていれば何も考えずに済んだのに、涙が出なくなると途端にいろいろな事が頭の中で主張し始める。とりあえず、ぐしゃぐしゃになった顔をどうにかしようと立ち上がった。冬に大理石の床に座り込んでずっと泣いていれば、いくら暖房の効いた贅沢な部屋であっても体は冷える。暖める人も、冷たい体に触って「こんなになるまで何してたの」と呆れ顔で心配してくれる人も、もういない。それだけの事だが、それだけじゃない。ぶわりと胸が震えて眼が潤むのを感じた。だが、涙になって零れ落ちる事はない。ただ、ぼうっとした頭と、熱を持って腫れているだろうまぶただけが残った。 明日から、どうすればいいのだろう。 冷水でまぶたを冷やしながら、ぼんやりと思った。明日からどうすればいいんだろう、住む場所も仕事も探さなければならないだろう、その前に、今月の家賃の支払いなどはいったいどうすればいいんだろう? 今まで、お金に関してはまったくはずかしい事だが、臨也にまかせっきりだった。この部屋に転がり込んだ当初はもちろん自分の事は全て自分でまかなうつもりでいたし、家賃に関しても、半額にも満たないだろうが納めるつもりでいた。だが、それを臨也は硬く拒否した。言い方は悪いけれど、君を養う事は金持ちの道楽のようなものだからね、気にしないで。臨也はそう言った。そして、この住所を履歴書に書かせるわけにはいかないから、と、私に履歴書すら書かせなかった。そうして私は甘やかされて、今、正確な値段すら解らない家賃の事で頭を抱えている。 おかしな話だ。大切な人間を失って悲しくて泣いたその次の瞬間に、現実的な家賃の問題で困っている。さらに言えば、泣いた事で体力を使ったせいか、体は空腹を覚えていた。心臓とも言える人間がもういないのに、私はいつもと変わらずに寝て起きて、そして今、お腹を空かせている。 生きているのだ、と思った。私は生きて、こうして、途方もない悲しみを少しずつ受け入れようとしている。でも、そうやって「死を受け入れ始めている自分」を、どうしても私は受け止めるわけにはいかなかった。自分がひどく淡白な人間のように思えた。いつまでも悲しんでなどいられないのは確かだろうが、こんなにも簡単に臨也の死を乗り越えようとしている自分に対する、どうしようもない失望を感じた。ずっと悲しむ事でしか、追悼の意を表せないわけじゃない。でも、これでは。 これではまるで、愛していなかったみたいだ。 恐ろしい結論に思い至ったその時、リビングのドアが開く音がした。もしかしたらと思う暇もない、綺麗に揺れる長い黒髪、すらりと伸びた首を覆い隠すように今日もタートルネックの服を颯爽と着こなした美人が滑り込む。その美しい立ち姿に対して、寝起きでぐちゃぐちゃの顔をした自分が恥ずかしかった。――昔から、そうだった。私はこのひとに、嫉妬していたのだ。弟しか見えていない彼女が、臨也を愛さない事など十分に解っていても、その美しさに、その聡明さに、ただ。 「波江さん……」 「ひどい顔ね」 「、元からだよ」 「つまらない冗談が言えるほどには元気になったのかしら」 「……ありがとう」 礼を言われる理由がないわ。波江さんは肩をすくめてそう告げると、コートを置いて台所へと向かった。 「コーヒーなら、あるけど」 まるで悪い事をした子どものように、ぼそぼそとそう告げる。4杯分のコーヒーは、なぜか決まりが悪かった。波江さんはちらりと私の方を振り返って、それから静かに、そう、とだけ呟いた。何も言わないけれど、彼女はもう彼女の雇い主がいない事を知っているのだろうと思った。新羅と波江さんは、詳しくは知らないけれど面識があると新羅から聞いた事がある。きっと新羅が連絡をしたのだろう。 波江さんはふたつのマグカップを持って、座りなさい、と私をリビングのソファに座らせた。昨日からソファに座らされてばかりだ、そう思ったら何もおかしくなどないのに笑みがこぼれた。場の空気を曖昧にするだけの笑い。波江さんはマグカップをローテーブルに置いて、いつもみたいに腕を組んだ後でおもむろに口を開いた。昔の話だけれど、と前置いたその言葉に、私はマグカップを両手で抱えたまま耳を傾ける。綺麗な声だ、と思った。 「あれ。ずいぶんめかし込んでどうしたの? 弟君の結婚式?」 「そしたらこんな所に来ると思う?」 「ぜーんぜん。全ての事をほっぽり出して、弟君にとって最高の一日になるよう手配するだろうね」 「解ってるならわざわざ聞かないで頂戴」 知り合いのよ。そう言って定位置となった黒い革張りの椅子に腰掛ける。パソコンのモニタ電源をオンにして、浮かび上がるデスクトップの背景に気持ちが落ち着くのを感じた。こんなところで作業なんかせずに、このまま愛しの弟に会いに行けたらどんなにいいだろう。 「波江さんに、結婚式に誘われるような知り合いなんていたんだ?」 「あなたよりはね」 「違いない」 そう言って、何が楽しいのか椅子をくるくると回して笑いかける男をちらりと見る。随分とご機嫌のようだ。 「でも珍しいね? 波江さんの事だから、そんな時間があったら弟に会いにいくために欠席にしそうなのに」 「そうね。でも、興味がない事をわざわざ聞く人間に答える理由はないわ」 「つれないなあ」 わざとらしいため息をひとつ。そのくせ笑ったかたちの顔で、とてもコーヒーとは呼べない色をした液体を飲み下す。バルザックじゃあるまいし、よくそんな真黒いだけの液体が飲めるわね。皮肉のひとつでも言おうとしたが、まともな答えが返らない事は十分に解っていたので胸の中に留めた。普通のコーヒーじゃないところを見ると、今日は彼女はいないのだろう。の淹れるコーヒーを気に入っているのだが、仕方ない。一度腰かけた椅子から立ち上がって、普通のコーヒーを淹れに行く。ああ波江さん俺にも、という声がかかるが、無視した。 「で、波江さんは? しないの? 結婚」 中身はともかく見目だけはいいんだからさ。全く同じセリフを投げ返してやろうかと思ったが、あまりにも下らないので肩をすくめるにとどめた。自分で淹れたコーヒーを一口含んで、弟と結婚できるような法律が整備されたらすぐにでも結婚するわよ、と淡々と返す。 あなたはどうなの。モニタから顔を外して、おざなりに疑問を返すついでにちらりと雇い主の顔を見る。先ほどと同じように、無性に苛立つ顔をしているのかと思いきや、思わぬ真摯な顔つきを見つけて少し眼を瞠る。 「そうだなあ。結婚生活でしか生まれない、人間の感情を体験してみるっていうのも悪くないかもね」 「あなたと結婚するような稀有な女が見つかるといいわね」 「いるだろ? 波江さんもよーく知ってる、身近なところにさ」 「とするなら」 そこで言葉を区切る。との結婚を、まるで実験のように言うこの男に私は腹が立っている、と、冷静に自分を見つめて思う。でもそれを口に出すつもりはなかった。ほんの数瞬だけ沈黙して、それを誤魔化すようにコーヒーを一口呑み込んでから言葉を続けた。 「今だってそんなに変わらないじゃない」 「解ってないなあ」 違うよ。全然違う。 「夫婦なら、――法的にも囲い込めたなら、もう俺だっていい加減安心できると思うんだけど」 まるで自嘲するようにこの男がそう言うのに、私は少なからず驚いていた。今まで、ずっとかわいそうなのはだと思っていた。こんな男に眼を付けられた、外出もままならないかわいそうな女の子。でも、その実、本当に囚われて苦しいのはこの男のほうなのか。それを隠そうとするから歪みが生じる。お互いがお互いに夢中で、他には何も見えないくせに、まるで何にも関係がないふりをするふたりは、そうしてすれ違ってきたのだろうか。 ――かわいそうなふたりだ、と思った。それ以上の事など思わない。それは、私が心配する範疇ではない。 「……あなたの安心のためだけに、結婚するのかしら」 「でも、こんな不安定で名前もない関係を続けるよりは、にとっても安心じゃない?」 「相手に因るわね」 「つまり、こんな一介の情報屋じゃ将来が不安だってこと?」 「解ってて聞いてるような人間に返す答えなんか、生憎持ち合わせてないって言ってるでしょう」 「あはは! 辛辣だねえ。解ってるよ。職業じゃなくて人間性って事だろ。よく解ってる」 でも、もう手放せないところまで来たんだ、だからといって今さらさらけ出す事もできない。仕方ないんだよ。 消え入りそうな声だった。ともすれば聞こえないほどの。だからこその切実さを抱いたその言葉を、面と向かってに言えていたなら、このふたりはもっと幸せなかたちで存在できたのではないか、と思う。でも。絡まった毛糸を下手にいじくりまわしてしまった後のふたりでは、言葉通り、もうどうする事もできないのだろう。元の形には、正しい姿には戻れない。いびつな形をした、それでも愛としか呼べない双方向の感情。 だからさ、波江。そう呼びかけて、俯いた顔をあげた時には、目の前の男はいつもの憎らしいだけの笑みを浮かべていた。誤魔化すのはもうやめたら、という言葉は、そして、行き場もなく消える。 「もしそうなったら、諦めて婚姻届の証人のところにサインしてね」 「……もう一人は誰にするつもり?」 「そうだねえ、に知り合いと言えるような人がいたらいいんだけど」 「あなたの都合で世間から切り離しておいて、よくそんな事言えるわね」 「そういうわけだから、まあ新羅かなあ」 人身売買の手先と、それに関わった医者が証人! そんな二人の将来って、どうなるんだろうねえ? そう言って、愉しそうに嗤う。それは、うまくいかない事が解っていながら、不自然に明るく振舞う事で目の前の不安を払拭したがっている、道化師の微笑みだった。 それは、波江さんの懺悔だったのかもしれない。絵画のような横顔を、出ないはずの涙でゆがんだ画面越しに見つめながら、そう思った。波江さんは話し終わると、それきり何も言わなかった。今後の事についても、何も。私はただ、白く美しい大人のてのひらが、私の手をしっかりと握るのに、例えようもないほど安心していた。 ←BACK * NEXT→ |