冷たい空気も雑踏も沈黙も、それまでと何も変わらない。昨夜の延長線上にある今朝。 何も、変わらないのに。 とりあえずうちに来てから話す、私を気遣ってそう言い張る新羅に対し、お願いだから、大事な事なら今言って、と電話越しにむりやり言わせた。 臨也が死んだ。あの夜と一言一句変わらない言葉だった。でも、その沈黙のひとつひとつが嘘ではない事を十分に告げていた。その時に浮かんだ気持ちはただひとつ、でも、それを新羅に直接伝える事はどうしてもできなかった。きっと、優しい彼は私の虚勢と受け止めるだろうから。 どうしてかは自分でも解らない。私は自分でも驚くほど素直にそれを受け止めた。ああ、そうか、死んだのか。 もう、いないんだ。 何も言えなかった。電話の向こうで新羅が私の返事を、何でもいいから反応を求めている、それは解るのに、どうしても何もできなかった。悲しくて言葉が出てこないわけでも、動転して頭が真っ白になったから泣けないわけでもない。ただ、臨也が死んだという知らせに対して、何も言う事がなかった。彼の言葉は私に響かず、行った事もない、場所も知らない国のニュースのように現実味がなく遠かった。セルティを迎えに行かせるから、とりあえずうちにおいで。新羅がそういうのに私はただ頷いて、言われた通りソファに腰掛けてセルティが訪れるのを待った。手も震えない、涙も出ない、でも確かに感じた。胸に穴があいたのを。 迎えに来てくれたセルティのほうが、顔が見えないのによほど泣いているように見えた。静かに抱きしめるその腕は、暖かさに満ちていたけれど、それでも泣く事はなかった。。名前を呼ばれる。大丈夫か、と気遣わしげな目線が見えた気がした。私は不器用に微笑みを返して、新羅が心配しているから早く行こう、とセルティを急かす。 どうして笑っているのか、どうして笑えるのか、私にも全く理解できなかった。大切な人間を失って笑おうとするその気持ちが、自分の事ながら理解できなかった。でも、心のどこかで、笑っていなければすぐにでも崩れ落ちそうな自分がいる事を、知っていた。 新羅とセルティの家はいつもと変わらず綺麗だった。私はそこでもソファに腰かけて、セルティが淹れてくれたコーヒーを飲みながら、新羅の話をただ黙って聞いた。セルティが私の手を握ってくれているのが、まるで外国の映画のワンシーンのようだと思った。心臓、手術、体力、葬式。様々な単語が新羅の口から飛び出す。それはもうほとんど海外の言葉と変わりはなかった。単語を拾う事は出来る、繰り返す事もかろうじて出来る、でも、意味までは解らない。私は映画に紛れ込んだ気分だった。そして、どうかすれば、この状況を笑い飛ばしそうな自分さえいた。 「。君は、自分でも気付かないうちに動転しているんだ」 新羅はそう言った。 「今夜はもう寝た方がいい、泊まっていきなよ」 「……大丈夫。帰る」 「」 「本当に平気なの、ありがとう、――いま帰らないと、ずっと、帰れなくなりそうだから」 一度離れてしまっては、ふたりで過ごした家に、ひとりでいる事が、耐えられなくなりそうだから。 私は微笑んでそう言った。新羅とセルティは繰り返し、何かあったら、いや、何もなくても連絡をしたい時は何時でも構わないからと告げる。優しい人が何も言えないのに付け込んでいるようだとも思ったが、本心だった。一度、あの家から離れてしまえば、もう戻る事が出来なくなりそうな気がした。逃げてしまったら、もう。 昨日まで傍にいた人がいない。それを理解できずに、ずっと臨也の影を探し続けてしまう気がした。 そうして。長い夜を終えて眼が覚める。私のほかに誰もいない部屋。何台ものパソコン、男物の整髪剤や香水、ふたりで揃えたコーヒーカップの青いほう。並んで立てられた歯ブラシ、壁に詰められた洋書、鳴らない携帯電話。そのどれもが、ひとりの人物の不在をうるさく私に告げる。帰らない日も会わない夜も、あの夜を境に少なくなったとは言え仕事の都合上なくなる事はなかった。それと何も変わらないはずなのに、何かが決定的に違っていた。 コーヒーメーカーに水を淹れて、スイッチを押して、そして後悔する。こんなに淹れても、もう一緒に飲む人はいないのに。お代わりを含めた4杯分。どうしよう、と思っても今更機械は止まらない。冬の空気が充満した部屋、吸い込んだはるか彼方で微かに香る臨也の香り、きっとそれもいつか、薄れてなくなってしまうのだろう。ああ。お風呂に入らなきゃ。でも何のために。昨日入っていないから、でも何のために綺麗にするんだろう。あの服と同じだ、綺麗にしても見せる相手もいないじゃない。コーヒーだって、もう、臨也の分はいらないんだ。 分け合う人は、同じ時間を共有する人は、もう――。 忘れられた涙が溢れ出る。何がきっかけになったのかは自分でも解らなかったけれど、一度防波堤を壊してしまえば、あとはもう止まる事はなかった。拭っても追いつかない。ただ涙が出る、呼吸が苦しい、息を吸い込むために唇を開くと嗚咽が漏れ出た。臨也。臨也、臨也、臨也。どうして。 何も言えなかった。何も聞けなかった。臨也の昔の話も、何を思っているのかも、何も。そんな事じゃなくてもよかった。何でもよかった。最近のニュースについてどう思っているかとか、くだらない思いつきだとか、何でも構わないから臨也についてもっと知りたかった。知り合って5年。一生を共にしたなどとは決して言えない短い時間。私は臨也の事をどれほど知っていたんだろう。何も知らなかったんじゃないか。私は、あなたが、何が好きで何が嫌いで、どんな未来を夢見ているのか、そんな事すら自信を持って言えやしない。 臨也。私はもっと、私の事を、臨也に知って欲しかった。何をされたら嬉しくて、何を言われたら嫌なのか、私はもっと自分について臨也に知って欲しくて、でも、それが今日じゃなくてもいいとずっと思っていた。 明日でもいい。明日じゃなくても、まだ私たちには未来があって、いつかでいい。ずっと一緒にいるだろう未来の、そのどれかの瞬間で解りあえればそれでいい。ずっと、それを夢見てきた。 臨也。 もう、祈りも通じない。 ←BACK * NEXT→ |