折原臨也は、私にとって心臓だった。

 気付いてしまえば、それは何よりも簡単だった。オトコとかオンナとか、彼女とか恋人とか、好きとか嫌いとか、――愛している、だとか。そうした言葉は何の意味もない。私にとって臨也は心臓だった。
 それまで何もなかった、ちっぽけだった私に、春がどれだけ美しい季節なのかを教えた。あの日、あの夏で時間を止めた私の人生を、再び動かしたのは臨也だった。それまで意味を持たなかった秋の香りも、過ぎ去るだけだった冬の寒さも、教えてくれたのは臨也だった。

 あの日。臨也が嘘をついた4月1日、そして、私が臨也の事をどう思っているかを告げた4月1日。
 同じ言葉が臨也から帰ってくる事はなかったけれど、それも構わないと思えた。ただ、目の前に臨也がいて、膜も何もない臨也に触れて、ぬるい吐息が耳元をかすめる。その暖かさだけで、どんな嘘が紛れているともしれない言葉なんかよりも十分に満たされた。初めて繋いだ臨也の手のひらは、予想に反して子どものように熱くて、それだけの事なのに泣きそうだった。
 そのまま私たちは手を繋いで新宿まで帰った。家についてからも離れるのが惜しくて、いまどきの中学生だってしないだろうに、私たちはずっと手を繋いだままだった。何も言葉はない。何を言っても足りない気がした、伝えきれないと思った、キスもセックスも何の意味を持たない。ただ手のひらの熱だけが全てだった。

 愛しているなんて幻想めいた言葉も、恋人なんていうちっとも明確ではない定義も、どちらもいらない。ただ、臨也が生きていて、たまに私の傍にいる。少しだけ潤んだその赤い眼と、その熱があって、ただ、ただ好きでどうしようもなくて、もうそれだけで十分だった。誰かと一緒にいるかもしれない事も、帰らない夜も、知らない街のにおいも、どれもを私は受け入れられるようになっていた。何も尋ねないし、何も気にならない。もしかしたら私のこの気持ちを、世間では諦めと呼ぶのかもしれない。でも違う、それは諦めなんていう寂しいものじゃなかった。伝えても届かないだろう、そう思って、手を伸ばす事をやめてしまう事とは違った。
 私の中で、それは抱擁だった。



 そうして、いつしか桜が散ってつつじが咲いた。気がつけばあじさいが咲き乱れ、朝顔を持った子供たちが新幹線で帰省するニュースを、臨也とふたりでソファに並んで腰掛けて見た。金木犀の匂いがして、だんだんと薄れ、冬の匂いで空気の密度が濃くなる。雪で街が覆い隠されたあとに、桜が咲く。
 あんな嘘のあと。思い返してみれば、私たちは呆れるほど幸福に過ごした。きっと、嘘を直視する事が怖かったのだと思う。私はなぜあんな嘘をついたのかを尋ねなかった。臨也もまた、今さら蒸し返す事もなかった。私たちはあの夜を忘れて、なのにあの夜を契機にして、それまでとは違う関係を作った。普通の恋人には遠く及ばない、それでも私にしてみれば満ち足りたしあわせな日々だった。ともすれば息が苦しいと思うほどの幸せ。
 そして、むせ返るような嘘に覆われた日々。


 私はいま、とても後悔している。
 どうしてあの夜の事、そしてそれに先立つ日々の事を、臨也に尋ねなかったのだろう。


 臨也。
 心の中で何度も呼びかける。答えはない。
 もうすぐ、桜が咲く。新しい季節が来る。春になったら、そんな言葉がついた、たくさんの約束を果たしてくれる人はもういない。その美しさを共有できる相手は、どこをどう探しても見つからないまま。

 あの日から1年後、冬の終わりの事だった。


 折原臨也は、死んだ。


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