の反応としては、呆けた後に安堵のあまり泣き出すか、それとも烈火のごとく怒るかだと思っていた。ただあの電話が嘘だと解って、生きている自分を見たとき、は信じられないことに微笑んだのだ。それはきっと俺にしか解らないぐらい微かな微笑みではあったけれど、しかしは確かに笑った。意味なんて考えるまでもない。あのワンピースを与えた時と同様、俺はまたにしてやられたのだ。全く。愛想を尽かす、最後のチャンスをあげたって言うのに。なんて馬鹿なんだろう。その愚かさに、こらえ切れず笑みをこぼすと、を追いかけるのを諦めた新羅が横で息をついた。

 「これに懲りたら、もう性質の悪い嘘をつくのはやめなよ」
 「心外だなあ。嘘をついたのは新羅であって俺じゃない、だろ?」
 「臨也」
 「俺は別に強制したわけじゃない、そこには選択肢があって新羅は嘘をつく事を自主的に選んだんだよ」
 「――どんな言葉で責任転嫁しても構わないけれど、君が、を傷つけたという事に変わりはないよ」

 思いのほか真摯な瞳で言う。恋人を守るために、平気な顔して嘘をついたその高尚さを、一笑に付して罪悪感を煽ってもよかった。だが何を返しても新羅相手じゃ堂々巡りだろう。大体、愛する人間のためならば、他の些事など構わないのが真にあるべき姿なのかもしれない。でもそれは新羅と運び屋の間の事だ、俺との間の事じゃない。邪魔したね、といつものコートを引っつかんで、の足跡を辿り玄関へ向かう。

 「臨也」
 「大丈夫、運び屋についてマイナスな情報を流したりなんかしないよ」

 ちゃんとお願いを聞いてくれたからね、約束は守る。一息に告げて玄関から出ようとすると、新羅は再び俺の名前を呼んで引き止めた。新羅のこんな態度はそれこそ高校時代から何も変わらないものなのに、いつになく苛立っている自分に気付く。情けない話だ。行くべき場所もなければ帰る家だって、俺の新宿の部屋を除いてはどこにもないはずのを、必死になって探そうとしているだなんて。

 「そんなに焦らなくても大丈夫だよ、今連絡があって、セルティがすぐ先の公園でを見つけたってさ」
 「……で? 新羅は俺を引き止めて、俺に一体何を言わせたい?」
 「臨也。本当に、こんなやり方しかなかったのかな」

 答える必要はなかった。いつもの意地の悪い笑みを浮かべて、そのまま黙って背を向ける。新羅のため息が再び聞こえた。

 「残念だよ」

 俺のこんな腐った人間性が、それとも別の何かが? どちらでも構わない。ありがとう、笑いながら返した先の新羅がどんな表情をしていたのか、重々しい音と共に閉ざされたドアの向こう側の事を知る術はない。


* * *


 セルティの差し出したPDAの画面が、風景に溶け込めずに闇の中でやけにはっきりとした光を放つ。仕事帰りに私を見つけたセルティは、私の顔色が余りに悪いのに驚いたようだったが、それでも何かあったのかとは尋ねなかった。私をこんな風に出来る人間が一人しかいない事を、セルティはもう十分に理解していた。

 「臨也がいなくなる日の事なんて、考えたことなかった」

 ぽつりと呟く。セルティはPDAをしまって、私の言葉に黙って耳を傾ける。

 「でも、今日、いつかいなくなる日を想った。――もう一度、帰る家がなくなるんだと、思った」

 臨也がいなくなったら生きていけない、なんて、そんな事は言わない。実際私は臨也と出会う前に、何よりも大切だった人を失った。それでもこうして生きているのだ、臨也がいなくなっても私の毎日はそれまでと何も変わることなく続くだろう。笑ったり化粧をしたり泣いたり映画を見たりする事だって出来る。でも、もう、帰る家はなくなる。おかえりを言える相手も、ただいまと言ってくれる相手もいなくなる。私はそれが、きっと何よりも怖かった。そこまで思い至って自分に絶望する。臨也をなくす事が怖かったんじゃない。臨也の事が好きだから、愛しているから失うのが怖いのではない。帰る場所がなくなってしまう事を怖がっているだなんて、それは、今まで私を保護してくれた臨也に対する、何よりもひどい裏切りに思えた。

 そこまでを、私は途切れたりつかえたりしながらぼそぼそとしゃべった。独り言と同じように、何の意味もなさない言葉なのに、セルティは黙ってその言葉をひとつひとつ受け止めて、それからPDAをどこかから取り出した。何かを打ち込もうと考え込んだあと、ふとセルティは視線をあげて動作を止めた。何かあったのかと振り返ったのと同時に声が降りかかる。

 「悪いんだけどさ、運び屋。埋め合わせはまた今度するから、今はと二人きりにしてくれないかな」

 セルティは眼だけで私の意志を尋ねる。首を横に振って、ありがとうとごめんねを新羅の分と一緒に伝えた。セルティは心配そうに私の肩にそっと触れてその場から離れた。結局打ち込まれることのなかった言葉は、いったい何だったのか、それが少し気がかりだった。
 臨也はコートのポケットに両手を入れたまま、何も喋ろうとはしなかった。普段の饒舌が過ぎる臨也からは想像も出来ないその姿を見て、私の頭は奇妙なほど冷静になっていく。ばかみたいに突っ立った私たちをよそに、咲き始めたばかりの桜が何枚か花びらを落とすのを、ただ静かに見ていた。

 私は臨也を一体どうしたいのだろう、と思った。それは、今まで臨也は私を一体どうしたいと思っているのだろう、と悩み続けたくせに、一度も出てこなかった疑問だった。私はこの目の前で所在無く突っ立っている男を、いったい、どうしたいのだろう。どうしてくれたら満足できて、今、どんな風にしてくれないからこんなにも寂しいんだろう。私は今までずっと、臨也から与えられるものを一方的に享受するだけで、臨也に自分がしてあげられる事なんてないと思っていた。変わらないのは私で、変わったのが臨也なのだとどこか無意識のうちに思い込んでいた。そうすれば責めるのは臨也だけで済んだからだ。そうだ、私は卑怯だとずっと臨也の事を責めてきたけれど、本当に卑怯なのは、何もしないくせに臨也に何かを求め続けた自分のほうなのだ。

 答えは簡単だった。
 私は、臨也を、愛したい。そして、臨也に愛されたいんだろう。


* * *



 何を言えばいいのか解らなかった。謝ろうにも自分には悪い事をした意識なんてない。形ばかり言ったところできっとそれはにも伝わるだろうし、そうなったら追いかけて来た意味がないだろう。でも、繋ぎとめるための言葉など、どこを探しても見つからなかった。今まで一度もいらなかったものだし、今後も一生そんな真似はしないだろうと思っていた。一度だって手を離すつもりなんて、なかったのだから。

 瞬きの間に、闇に紛れて消えてしまいそうなほど頼りない姿なのに、俺をまっすぐに見つめるの瞳だけは異様なほど輝いて見えた。眩さをこらえるように眼を細めると、それが合図かのようには泣き笑いの表情で俺の名前を呼ぶ。臨也。声は少しも震えてはいなかった。覚悟を決めた声音で何を言われるのかと少しだけ身構えて、そのちいさな唇から漏れた言葉に、永遠に、時が止まったように思えた。止めてしまいたかった。

 「愛してる」

 ――
 俺はこの先、この言葉を絶対に忘れないだろう。今までにも何度か言われたことのある言葉だ、そして毎日のように使っていた言葉だった。でも、こんなにも意味を持った事なんて一度もなかった。言われただけで心が震えるような言葉が存在するだなんて、思ってもいなかった。
 は笑っていた。こんな芝居をうった理由も問わずに、怒ることも泣くこともせず、はただ、全てで俺を許したのだ。。出来うるならば同じ言葉を返したい、でも、言えない。

 ――どうしたって、言えないんだよ、

 そうして、俺はまた。
 ごめんね、。俺はそう言って、の体を引き寄せる事で全てを退ける。久しぶりに触れた体は前よりもずいぶんと細くなっていて、たったそれだけの事なのに、何よりも俺を傷つけた。は弱弱しく俺のコートを掴んで、もう一度同じ言葉を繰り返した。吐息ごとコートに吸い込まれて消えたその言葉を、俺はには贈れない。代わりに回していた腕の力を強めて、髪に唇をうずめて囁いた。

 「帰ろう」

 こうして言葉を奪ってしまう。
 いつかが、今日の事を思い返して、後悔する事を解っているのに。


* * *
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