帰り道にマンションを見上げて、部屋に灯りがついているとほっとした。私にも帰るべき場所があるように思えた。入ってすぐの、正面の椅子に、臨也が座っているのを見るのが好きだった。狭いってじゃれながらむりやりふたりで座ったソファ、一緒に醜悪な映画を見たテレビ、私の電話番号しかない黒い携帯電話。ふたりで横になったベッド、くだらない話をしながら夜を明かして、朝日を浴びながら飲んだコーヒー。どんなくだらない話でも相手が臨也なら楽しくて、テレビや本で覚えたばかりの知識をまっさきに披露しては次の日に忘れる馬鹿げた日々、会話をするのが面倒くさい時も、次の瞬間には話したい事が溢れ出た。パソコンデスクのうしろに広がった一面の窓から差し込む光、笑い顔、呆れたような眼、ふっとやわらかくなるその横顔。なんて事はなかった。当たり前のように毎日は続いて、私は臨也の帰りが待ち遠しくて、――ただ、幸せだった。 もう電話も鳴らない、帰りを待つ人もいない。もう、あの赤い眼は開かない。 でも生きている。生きる。なんて、つらいことなんだろう。つらくて眩しくって、輝いて、……美しくて、くるしい。それでも生きたいと願うのは。あの時に感じたあのうつくしさを――愛したひとと共に見たこの世界の輝きを、失ったこの苦しさを、それでも抱えていたいからだ。どれほど苦しくても、その先にあるものを期待せずにはいられない、それが生きている事の何よりの証明であり、生きるという途方もない行動の原因であり、また、人間が抱くただひとつの希望なのだろう。 見上げたマンション、臨也の部屋は、当たり前の事だが真っ暗だった。 波江さんはもう帰ったのだろうか、そう思いながらポストを開ける。臨也はダイレクトメールが嫌いだと事あるごとに言っていたけれど、その実、どんなものであろうとポストに入っていると楽しそうだった。それが依頼の手紙でも脅迫状でもただのビラでも、何でも。今日のポストにはオレンジと黄色、赤で目立つように装飾されたチラシが何枚か入っていた。臨也がいれば、口はどうあれ、嬉しそうに紙飛行機なんかを折ったんだろう。そう思って少しだけ笑った、笑えた、――その時だった。 見慣れた筆跡だった。いつでも電子機器を使う男の、めったにお目にかかれない、だけれど、もう、目に焼きついた字。 様、 そう書かれた封筒。郵便番号と、マンションの名前と部屋番号のみの不親切な手紙。それしか表書きのない、まっしろな封筒。 震える手で、私はそっとそれを裏返す。誰からなんて、もう、確認するまでもない。それでも、夢の中の出来事のように思えた。信じられなかった。その、性格をあらわしたかのように四角ばった、神経質そうな整った字。 ――折原、臨也。 そこからどうやって部屋に入ったのか、もう、覚えていない。 → |