いつ電話を切ったのか解らない。ちゃんと鍵をかけた覚えもない。財布と携帯電話だけを片手に、気付いたら私は家を飛び出していて、都庁前で客を待つタクシーに飛び乗っていた。どちらまで、と聞く運転手の間延びした声にかぶさるように、池袋まで、と告げる。ドアが閉まるのも発車するのも、何もかもが馬鹿みたいに遅く見えて、急かそうと思うのに声が出ない。ふと見下ろした膝の上の手は震えていた。少しだけ傾いたバックミラーの中の顔は、見知らぬ他人のようだった。

 、臨也が――」

 新羅は一体そのあと何と言っていた? 臨也が倒れた、怪我をした、――それとも? 聞こえていたはずだった、返事をしたはずだった、だけれど最悪を否定したがる私の頭は何も聞いていなかった。何も解らない方が怖いのだと十分に知っているくせに、私はまた同じ事を繰り返す。

 臨也が新羅の所に行くのは珍しい事ではない。でも、だからといって私に電話が来た事は、今までに一度しかなかった。臨也が脇腹を刺されて、新羅のところでは処置できなくなった時だけだ。あの時臨也はどうなってもおかしくなかったと後で新羅は言っていた。あの時はを不必要に動揺させないように黙っていたけれど、と。そんな新羅が私に臨也の事で電話を、こんな真夜中にかける。その事実だけで十分だった。

 眼に入る街並みはこんな私の気持ちも知らずに今日も輝いている。この中のひとつの灯りが消えたところで、きっと誰も気づかないだろう。でも、その灯りを頼りに今まで生きてきた人間は違う。その灯りが消えてしまえば、もう、その先は闇でしかないのだ。祈るように手を強く握り合わせる。それでも、どうしても、急いでくださいとは言えなかった。想像すらできない最悪の事態を目の当たりにして、それが現実になってしまうのが、怖かった。


 新羅のマンションの前でタクシーを止めて、お釣りも貰わずにエントランスに駆け込んだ。エレベーターを呼んで、その後すぐ、どうして呼んでしまったのかと後悔した。このまま新羅と対峙してしまえば、どうしたって否定できない現実が目の前に現れるのだ。私の頭はまだ、臨也が死んだという事をしっかりと理解したわけではなかった。いざ何も言わない臨也を見て、自分がどうなってしまうのか予測もつかない。だって、そんなの、嘘でしょう。往生際の悪い頭は、新羅がそんなくだらない事で人を呼び出さないと解っているくせに、ありえない可能性をどこかから引っ張り出そうと働き続ける。
 あと何分かしたら、私は臨也を永久に失ってしまうだなんて、そんなの到底信じられるはずもなかった。

 新羅の部屋のインターフォンを鳴らす。新羅がこのまま出てこなければいいと心の底から思った。でも、インターフォンからは新羅の声で、確認するようにと私の名前が呼ばれて、その後すぐに扉は開いた。隙間から見える新羅の白衣はいつもどおり綺麗なままで、こんな時間で、私がこんな掠れた声をしていなければ、まるで遊びに来たのだと誤解できそうなほどに普段通りだった。でも、新羅のいつにない真剣な面持ちがそれを否定する。解っている。もう大丈夫。でも、尋ねる言葉は、喉にへばり付いてなかなか声にはならなかった。

 「……」
 「新羅、さっきの電話、……本当?」

 ――。落ち着いて聞いて欲しい。臨也が、
 新羅は私に何も言わない。ただ眼を伏せて首を横に振った。、新羅がそっと私の名前を呼ぶ。何も聞きたくなかった。言葉を拒むように顔を背けようとしたその時、新羅の白衣の向こうに見慣れた黒い服が見えた。あれは――。

 「早かったねえ」

 嘘、だ。


* * *



 「――どうして」
 「、」
 「どうして生きてるの、って? あんまりな質問じゃない?」

 、携帯電話を開けて日付を見てごらんよ。臨也は新羅の言葉を遮って、嗤いながらそう告げる。私は呆然とした頭で言われるがままに携帯電話を開いて、その日付に何も言えなくなる。4月1日、今日は。

 「エイプリルフール、はまんまと騙されたってわけ」
 「……馬鹿じゃないの」
 「!」

 臨也の笑い声が響く。それに被さるようにして新羅が私を呼んだのが聞こえたが、一度走り出した足はもう私の意志では止まらなかった。来たときとは反対に、乱暴にドアを開けて、新羅に追いつかれないようにとエレベーターを待たずに階段を駆け降りる。心臓が冷たかった。外気だって天気予報が行っていた通りまだ冷たい、それなのに指先と頭だけは燃え尽きてしまいそうなほど熱を持っている。何を言われたのか、何が起きたのか、とても理解できそうになかった。

 電話は、あれは、嘘だったのだ。
 臨也は死んでなどいなかった。新羅は臨也のこの反吐が出るような芝居に巻き込まれたのだろう。そんな事はどうでもいい。どうして、どうして、どうして。どうして臨也は私にこんな事を、私がどんな気持ちでタクシーに乗っていたと思っているのだろう。どんな気持ちで新羅の部屋のドアを開けたと、どんな気持ちでいたと――。息が切れる、どうやって呼吸をすればいいのか解らない、逃げ場をなくした呼吸が喉で詰まって苦しい。無理やり吐き出すように大きく咳き込んだ後、私はただ、笑った。

 馬鹿げている。こんな事をされても、嘘でよかったと思えるだなんて。

 あの時。臨也が笑っているのを見た時。私は悲しかったのでも腹が立ったのでもない。
 ただ安堵で胸がいっぱいで、何も言えなかったのだ。

 「馬鹿は、私だ……」

 逃げるように動かしていた足を止めて座り込む。勇ましい馬の嘶きが、どこかで聞こえた。


* * *
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