の姿を始めて見た時、は同じ年頃の少女が好むような派手な色合いのものではなく、紺色のシンプルなワンピースを着ていた。モニタに映し出された、写真の中のは、どのような表情をしたらいいのか解らないで無表情のまま立ち尽くしていた。よくある顔立ち、きっと雑踏の中にいても誰かの目を惹くこともなく、ただ埋もれるだけの平凡な少女だった。それなのに、その写真を一目見た時から、俺はどうしてもが欲しくて堪らなくなった。

 それは子供がおもちゃを欲しがるのに似ていた、と振り返って思う。流行っているから、なんていう下らない理由で必死になって親の手を引く子供のように、俺もまたなりふり構わずにの事を手にしたいと思った。違うのは、子供には『流行っているから』の他にも、格好いいからとか何がしかの理由があるのに、俺にはそれがなかった事だけだ。思えばそんな理屈抜きの感情を誰かに、さらに言えば女に抱いたのは初めてだった。自分の中にそんな理解できない感情があるのは面白くなかったが、どこか愉快で、しばらくはそれに付き合おうと思ったのが始まりだった。

 あの時、どうしてあんな事をしたのか、未だに自分でも納得できるような理由を得られていない。面白そうだったから、というのは少なからずあるだろうが、それだけで言い切れるほど簡単な感情じゃなかったのは確かだ。ただ、思いついた瞬間から実行せずにはいられなかった。自分には珍しい一か八かの賭けだったのに、どうしてか勝つ自信があった。が俺を――出会ったばかりの、素性も知れない男を、選ぶ気がしていた。だからこそ、どんな事でも出来た。神をも恐れぬ暴挙ですら。
 すぐに飽きるだろうと思い続けて、4年。もう誤魔化す事は出来ない。

 綺麗な言葉で片付けてしまえば、あれは運命だったのだ。俺にとってもにとっても。それならば俺が今からしようとしている事もまた、逃れ得ない運命なのだろう。自分でも愚かな事だと解っているが、それでも唆す口は止まらない。傑物ですら神が与えたレールを踏み外して転落するのだ、たかだか一介の情報屋である自分ならばなおさらだ。それでも、間違っていても足を進めるのは、何が起ころうと怯まない覚悟を自分の中に確認したいからなのだろうか。それとも、が俺を追って、同じように踏み外すことを望んでいるのだろうか。
 ――誤った方向へ進もうとする俺を、導いてくれるのを、期待しているからなのだろうか。

 記憶の中の少女は、笑わない。


* * *



 久しぶりにつけたテレビでは、明るい色のツインニットを着たアナウンサーが桜の開花を告げていた。気候の影響により例年より遅い開花となりました、関東地方の見ごろは今日から2週間程度、ぜひ週末は花見にお出かけください。明るい笑顔の後に、晴れマークばかりが並んだ天気予報が続く。どちらもめったに外に出ない私には関係のないニュースだったが、他にやるべき事もないのでソファに座って暖色系でまとめられた画面を眺める。天気のあとに現れた気温は、春を迎えたとは言えまだまだ低く、ふと臨也の事が頭に浮かんだ。
 出掛けに具合のよくない咳をしていたが、あれはもう治ったのだろうか。――会わない私が心配するような事じゃないか。桜が散るまでに会えるのだろうか、なぜ一言会いたいという言葉すら私は臨也に言えないんだろう。一度頭に臨也の事が浮かぶと、それまでは整然としていた場所が突然騒然となる。いつだって臨也の事ばかりで、今まではそれでよかったかもしれない。でも今は違う。
 桜の開花や今日の天気だけじゃない、臨也の事でさえ今の私には、遠い世界の出来事に思えた。

 家を出ないのは、もともと私が出不精だったという事も大いに関係していたが、それだけではない。臨也との約束だった。臨也の仕事が仕事なだけに、家が知れたり、同居人の存在などが明らかになるのは有難いことではない、と臨也は最初にはっきりと私に告げた。ならばなぜ同居を提案したのだろう、とは思ったが、別段外出が好きでもないので私はそれを受け入れた。何より、あの時の私には、出て行きたい世界もなかった。

 あの時からもう4年が経った。この部屋に初めて足を踏み入れた時の事は、未だに鮮明だ。

 少ない荷物を抱えた私は、黒い服を着た臨也――折原さん、の後ろについて部屋に入る。まず最初に眼に入ったのは大きな窓だった。そしてその前におかれた何台ものパソコンと応接セット、左右には天井まで届くほどの本棚が聳え立っている。仕事場も兼ねているとはいえ、生活感のない家だと思った。後で通されたキッチンも、見えるところには調味料や道具はなく、冷蔵庫の中に入っていたのも水と赤ワインだけだった。一体どんな生活をしているのだろう、と思ったが、それもまた約束のひとつだったので詮索はしない。思えばあの時の私は、折原臨也の同居人として全く優等生だった。何も詮索はせず否定もとがめもしない。何にも構わないのは、何も関心を持っていなかったからなのだと今ならば言える。4年も経った今では、無関心でいる事ほど難しい事はないというのに。

 「左側の部屋が俺の寝室で、右側が今日から君の寝室。一応ベッドとか基本的な家具は置いといたから」
 「お金は」
 「いいよ、別に。そこまで困ってるわけじゃないし、引き取る側としては当然の事をしただけだ」
 「解りました。いつかお返しします」
 「期待せずに待つよ。あとは、パソコン周りさえいじらなければ、あるものは好きに使ってくれて構わない」
 「書棚は?」
 「気になったものは持っていっていいよ。元あった場所に戻してくれたら有難いけど」
 「解りました。ええと……ありがとうございます、折原さん」
 「その折原さんっての、やめない?」

 家に帰って来てまで、そんな堅苦しい会話したくないんだよね。一緒に暮らすんだし、何よりここは君にとっても“家”なんだ。くつろげなければ家である意味がない。今すぐにとは言わないけど、慣れたらその敬語と折原さん、なんていう仕事を思い出すような呼び方はやめてもらえると嬉しいね。

 記憶の中の臨也は、今と変わらずに大仰な身振りで訴える。私は曖昧な相槌を打ちながら、折原さん以外のふさわしい呼び名を考えて、それを放棄する。折原さん以外の呼び名が、私たちに似合う日が来るとは思えなかった。だが家主の意向となれば仕方ない、そう決めて尋ねたのが全ての始まりだった。思えば、あの時のあの質問から、私は臨也の放つ引力に抗えなくなったのかもしれない。

 「では、何と呼べば?」

 尋ねられた“臨也”は、初めて出会ったときと同じく、満足そうに笑っていた。思い出の中の、どこよりも遠い場所にいる臨也。瞬きで消えてしまわないように、私はそっと眼を閉じた。


* * *



 今ここにいない事も、こんな顔をして笑わないだろう事も解っているのに、私は幸せそうだった。だからこそ目覚めた時の喪失感に打ちのめされる。久しぶりに見た夢は残酷以外のなにものでもなかった。眼を閉じれば臨也がいるのではないかと錯覚しそうなほど、何もかもが鮮やかだった。臨也の部屋のドアを開ければ、ベッドに腰掛けた臨也がいるのではないかと思えるほど。でも、それは、夢だ。

 まだぼうっとする頭を無理やりに持ち上げて立ち上がる。ソファに不自然な体勢で寝ていたため、伸ばすと体の節々が痛んだ。外の気温など何も考えずに入れていた暖房のせいで、体が少しべたべたするのが気持ち悪かった。何をするわけでもないが、とりあえずシャワーを浴びて着替えようと、着ていたワンピースに手をかける。頭から引き抜こうとしたその瞬間、部屋の中からけたたましい音が聞こえて思わず肩を震わせた。何の音かとあたりを見回して、大理石の上に落ちた携帯電話が震えている事に気がつく。寝ている間に床に落としたのだろうそれを拾い上げて、サブディスプレイに表示された名前に背筋が凍った。右上に小さく表示された時間が眼に入る。間違ってもこんな時間に電話するような人じゃない。

 「? 大変なんだ、臨也が――」

 声は、震えていた。


* * *
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