誰もいない部屋で目覚める。携帯電話の待ち受け画面で時間を確認して、潔くベッドから降りた。もう昼をとうに過ぎている。とりあえず洗面台へ向かおうと冷たい大理石の上につま先をおろすが、未だに頭は夢の中のように霞がかっていた。いっそのこと夢ならいいのに、そう思ってから発想の幼稚さに泣きたくなる。夢なんかじゃない、この前のやり取りも、こんな広い家にひとりぽっちだということも、全部夢なんかじゃない。

 洗面所の隅に置かれた洗濯かごには、何もする気が起きずにいた日数だけ洗濯物が溜まっていた。かごの下のほうにうずもれたワンピースの、その紺色。ちらと見え隠れしている鮮やかな闇色を見咎めるたび、早く洗わなければと急く心を、もうひとつの声が勝手に宥めて私のやる気を奪ってしまう。

 “一番見せたい相手も帰ってこないのに、どうして洗う必要なんかあるの?”

 そうしてまた今だって。ため息とともに着ていたパジャマを投げ入れる事で、罪悪を押し付ける紺地を隠そうとしている。そんな事をしても、責めるように頭の中で繰り返される、数日前の会話から逃れられはしないのに。


* * *


 臨也が帰ってきたあの日。条件反射のようにおかえりと言った後、言いたい言葉がたくさんあるにも関わらず私は何も言えなかった。何かを尋ね始めれば、それまで気になっていた全てが口から飛び出そうで怖かった。――そして、そんな言葉で臨也に失望される事が、怖かった。
 臨也はそんな私を見て、楽しそうに笑いながらいつもの黒のコートを乱暴に脱ぎ捨てた。ソファの上に投げられたコートが立てる、その音にすら私は怯えている。どうして。どうして、一番会いたいと思っていた相手を前にして、不安で押しつぶされそうになっているのだろう。

 「言いたいことがあるなら言ってくれて構わないよ」
 「……別に、何も」
 「素直じゃないねえ。何で帰ってきたの、何で今まで留守にしてたの、誰かと一緒だったの?」

 そういうこと、聞きたくてたまらないって顔してるよ?
 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して臨也がそう言うのに、私は咄嗟に反応できなかった。ただ何も言えずに真っ黒な背中を凝視していると、その視線に気付いた臨也が振り返って、意地悪な笑みを浮かべる。ああ。私はこの顔を何度も見た事がある。今から自分が言う言葉で、目の前の人間を傷つけられると確信している時の、その隠しきれない愉悦にゆがんだ顔。聞きたくないと思うのに、眼を閉ざすように耳をふさぐ事は出来ない。

 「帰ってきたのは着替えに寄ったから、今まで留守にしてたのは仕事だったから」
 耳をそばだてないと聞こえないぐらい小さな声で、歌うように臨也は囁く。聞きたくなんかないのに、小さな声に耳は過剰に反応して、どんな言葉も聞き漏らさないように集中してしまう。爛々と輝く赤い眼が私を捉え、形のいい唇がゆっくりと開かれる、その言葉を私は、

 「誰かと一緒だったか、に対する答えは」

 ――聞きたくない。

 「私にそれを話す必要が、あるの?」
 「聞きたいんだろ?」
 「言ったでしょ、別に、って。私は居候であって恋人じゃない」
 「へえ?」

 言いながら、なんて馬鹿げた虚勢だろうと自分でも思った。だったら言葉を遮る必要なんかない。同居人として、居候として、何の感情も動かさずに、女といても誰といてもその話をいたって冷静に聞けたはずだ。例えば、仕事仲間である波江さんにそれが可能なように。言っている私でも自分のこんな矛盾に気付くのだ、目の前のこの男がそれを解らないはずもない。しかし臨也がしたことは、私の矛盾を追及することではなかった。
 臨也は面白そうに笑った後、まるで私の存在などないように自分の部屋に向かった。着替えに帰ったというのなら、クローゼットにずらりと並べられた、同じようなデザインの服を取りに行ったのだろう。そう解っていても、何も言わずに向けられたその背中に、私の胸は笑いたくなるほど痛んだ。

 姿を見せない間も、こうして会った後でも、臨也は私のことを好きなように振り回して遊ぶことが出来る。私には、どうしたって臨也の心を動かす事なんてできないのに、私は臨也のくだらない態度や言葉ひとつで泣きそうになっている。着替えを済ませて出てきた臨也の、扉を閉める音ひとつにも、わざとらしいため息にも、身振りにも――。

 「が素直に寂しくて心配で嫉妬してたって言うんなら、しばらくは家にいようと思ってたけど」
 どうして。

 「そうじゃないみたいだし、またしばらく外での仕事に精を出すことにするよ」
 どうして、あんなにも脆弱な強がりで、自分を守れると思ったのだろう。守ろうとしたのだろう。

 「どうぞ? そっちのほうがせいせいするわ」

 こんな、脆弱な、諸刃で。


* * *



 苛々していることをはっきりと自覚していたが、だからといってそれが収まるわけでもない。こういう時に煙草でも吸えたら気分はまた少し違ったのだろうが、喫煙の習慣もないのに持ち歩くような無駄はしない。紛れることなく停留し続ける苛々を、いつもならば愛すべき人間の行動を見ることでいくらかは忘れられたのに、けしかける気すら起きない。天を仰いでそのまま倒れこみたい気分だったが、潔癖の気がある自分が薄汚れたビルの屋上でそんなことが出来るはずもない。自分の部屋のダブルベッドで、無駄に高い天井を見上げて眠りに入りたい。腕の中には――、そこまで考えて臨也は薄く笑う。拒絶したのは、させるよう会話を仕向けたのは自分なのだ。後悔はおこがましい。解ってはいるのに頭の中の声は止まない。

 少し前までなら普通にできた、当たり前の事が今じゃもう叶わない。反吐が出るような仕事のあと、が雑誌やテレビや携帯電話から顔をあげて、俺を見てゆっくりと笑って出迎える、その瞬間の顔が好きだった。帰りを待つ人間がいる事なんて、それまでだったら想像もできなかった事に、嗤いたくなるほど幸せなんてものを感じている自分がいた。――もう、すべて過去形でしか言えない。

 自分は一体どうしたかったのだろう。に何を言わせたかったのか、言って欲しかったのか。寂しくてたまらないのに、そんな事を言えずに葛藤で苦しむを見たかった? 寂しいと素直に言って欲しかった? 解らない。自分の気持ちが解らないなど、今までの人生で一度も有り得なかったのに。
 昨日の事だけじゃない、俺はにどうして欲しいのだろう?

 初めから、追い出されるために家に帰った。いつまでも逃げ回っているわけには行かないのだ、一度会って、にはっきりと家にいなくても構わないと言ってもらわなければならなかった。だが、の顔を見た瞬間に、このまま全てを話してしまいたいと思った。あの時そんな考えが浮かんだからこそ、必要以上に冷たい言葉でを突き放した。縋るような自分の思いを一蹴するためにも。

 ――いや、違う。
 きっと、傷ついたのだ、自分は。

 強がりだと解っていた。それでも、の口からそんな言葉が出たのに、自分は傷ついたのだ。
 恋人じゃない、だなんて、――決して関係に名前を与えるような言葉も言動もしてこなかったのは自分なのに、それでもその言葉に、胸は抉られたかのように痛んだ。キスをした、セックスをした、でも愛してるなんて一度も言わない俺たちの関係。到底恋人なんて呼べるようなものじゃない。それでも。

 ねえ、。たぶんはそんな呼称なんかじゃもう満たされないんだろうけれど、俺はどうしたって、今からでも言えるものなら言い切ってしまいたかった。恋人とはとても呼べなくても、何よりも大事だって、何にも臆することなく。

 でも、もう全てが遅い。全てが遠いよ、


* * *


 あの後、臨也は「とっとと行ったら?」という私の言葉に促されるようにして、新しいコートに腕を通すと一度も振り返ることなく家を出て行った。

 なぜあんな強がりの会話を続けたのだろう。気付いた時には言葉は滑り下りていて、傷ついたのはむしろ言っている私自身だった。あの時、寂しいとひとこと素直に告げたら、臨也は真面目にその言葉を聞いて私の傍にいてくれたのだろうか。大きな仕事を少し横において、一晩でも私を選んでくれた?
 ――そんな事、起こるはずない。

 叶わない奇跡を待つのは疲れた。正直に寂しいと答えて、なんの虚勢も、鎧もまとわない心を差し出したとして、その後。どうして臨也が心を握りつぶしてしまわないと言えるだろう。むき出しの私を傷つけるために、その言葉を待ち構えているかもしれないのに。

 馬鹿みたいだ。私の虚勢を臨也は見抜いているくせに、私には未だに臨也が解らない。解らないで、誰もいない部屋に一人で答えの出ない問いかけばかり繰り返している。こんな複雑な事を考えなくたって、振り返らずに出て行く臨也を引きとめる方法なら、いくらでもあったのに。たくさん、あったのに。

 波江さんも来ない。今日も一人きり、作りすぎてしまったご飯を冷凍庫に押し込んでは空虚を押さえ込む。


* * *
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