臨也と出会ったのは夏だった。蒸し暑い空気の中、黒いワンピースを着た私は右手にハンカチを握り締めている。臨也はスーツを着ていて、細身の黒いネクタイが少しだけ緩められていたのを今でも覚えている。場に似合わない笑顔を浮かべた臨也の言葉を、どうしてあの時そのまま受け入れたのか解らない。ただあのときの私には何も無かった。縋れるものも、帰る場所も、未来もなかった。眠れば明日が来ると解っていながら、今日まで続いていた日常が明日からは存在しないということが信じられなかった。 一晩で全て失った私に、残されたものはもはや自分自身しかなかった。ならばどこに賭けても同じに思えたのだ。危険でも安全でも不自由でも、今日拾われて明日捨てられたとしても、何でも構わなかった。涙も出ない乾いた瞳で、記憶の中の私は臨也の言葉にしっかりと頷いて見せる。そのときの臨也の満足そうな微笑の理由は解らないまま、それから4年。今でも私は臨也の傍にいる。 臨也と私の関係を、どう分類するべきか私には解らない。恋人と言うには致命的なほど愛が欠けていたし、同居人と呼ぶには踏み込みすぎていた。一緒に住んで、ある程度体や心を許していても、私たちはどこまでも知人でしかなかった。 それで構わない、と心の底から思っているわけじゃない。でも何かを言って壊せるほど、私は強くなかったのだ。今だってそう、ここ数日家に帰らない臨也に私が出来ることは何もない。今どこにいるのか尋ねるメールを打ってもよかったけれど、そんなことをして疎ましがられたらという気持ちが私に携帯を触らせない。結局家主のいない家でひとり、時間をつぶすために頭に入らないテレビや雑誌を眺める事しか出来ないのだ。昔だったら臨也が帰らない夜は、ひとりきりの自由を満喫することだって出来た。でも、4年をかけて一緒にいることが当たり前のようにも化した今、一緒にいるべき相手が帰らないことは恐怖だった。いつか捨てられるだろうと覚悟をしているくせに、帰らないだけで怯えるだなんて、自分でもその矛盾を苦々しく思う。こんなに臆病になる必要なんてないのに、いつからこんなに女々しくなってしまったのだろう。頭の中の冷静な部分がそう言って弱気な自分を叱咤するけれど、今だって読めもしない本を持って臨也について考えている。まったく馬鹿げてる、思いながらすっかり冷め切ったコーヒーを淹れ直すためにベッドから起き上がる。 真っ暗なリビングを横切ってキッチンへ向かう。いつもなら煌々と光っているはずのパソコンは数日間電源が入らないまま、静かに眠っている。何か大口の仕事が入ったのかどうか、それすら私は知らない。肉体的には誰よりも深く繋がっても、心は何光年も彼方にある。ふたりだからこその孤独。 目の前に臨也の体がある。私はそれに触れようと手を伸ばす。もう少しでその赤い瞳に、黒い髪に、細いからだに手が届くのに、あと少しのところで不透明な膜が私たちの接触を拒み続ける。熱の気配も感じられる距離で、でも指先がそれを知ることはない。触りたくて、欲しくて仕方がないのに、どうしたって得られない。臨也から私に伸ばされる手にしても同じ、だからこそ私たちは心の切実さに目をそむけるために欲しくないふりをする。 互いの「愛してる」も「好き」もその他の愛の言葉も、何光年も先では届かない。 こんな星の光すら霞むような、贋物の眩さの中では、臨也の光は私には見えない。 ポケットの中の携帯電話を取り出して確認する。何度繰り返してみてもサブディスプレイは時間を表示するだけで、メールの通知ランプも点滅しない。左ポケットに突っ込んだ仕事用の携帯電話は、うんざりするほどに震えてはその存在を叫ぶのに。顔を顰めればいいのかため息をつけばいいのか、くそったれな仕事で疲れた頭では咄嗟に判断も出来ない。観念するのはいつも俺のほうで、結局ため息でも顰め面でもなくやりきれない思いだけを胸に、家に帰る事を決める。自分が原因で、俺がこんな風になるのだなどと、きっと想像もしないのだろう。最後に見た彼女は、少し前に俺があげたワンピースを着ていた。 ちっともこちらの思う通りにならないは、そのワンピースを贈ったときも例に漏れず予想外の反応をして見せた。一言欲しいとつぶやいたのを覚えていたのも、それが新宿の店頭にディスプレイされているのに眼を留めたのも偶然だった。だが贈りたいという気持ちに混ぜ物があったわけじゃない。子供があげる母の日のプレゼントと同じで、純粋に喜ぶ顔が見たいだけだった。だが、同じシリーズの型違いまで入った紙袋を受け取ったは、くしゃりと顔を歪めたのだ。それは嬉し泣きの前兆なんて顔じゃなかった。怒ればいいのか泣けばいいのか解らない、子供が癇癪を起こす前の顔となんら代わりはなかった。 欲しがっていたものを贈ったというのに、そんな顔をされる理由が俺には少しも解らなかった。女というものは得てして予期せぬプレゼントが好きなものだ。それが欲しがっていたものなら、尚更だろう。確かに、がどの型を欲しがっていたのかまでは覚えておらず、面倒くさいから全種買ったという背景はあるが、多すぎて悪いなんて事があるだろうか。喜んでくれるだろうと思ったのに、そんな反応をされて、面食らったのを今でもよく覚えている。大体、人間の予期せぬエラーを面白がっていたはずなのに、いつからか思い通りにならない事が面白くなかった。結局子供みたいに機嫌を悪くしたのは俺のほうで、は搾り出すようにありがとうと俺に言ったが、もう遅かった。 皮肉交じりの俺の言葉に、は何と返したのだったか。記憶の中の声はノイズ交じりで正しく響かない。 都庁前の一等地に建てられたマンションのエントランスをくぐる前に、自分の部屋の窓から明かりが漏れているのを確認する。何よりも強く輝くシリウスが、何と引き換えに熱を放っているのか俺は知らない。1週間かそこらを一人で過ごしたが、どんな気持ちであの部屋にいたのか、きっと光速でも俺には届かない。確かに光を放っているのに、俺がその光を見る頃にはもう燃え尽きている悲しい星。かわいそうな。 「ただいま、」 「……おかえり」 今だって、言いたい言葉はたくさんあるだろうにね。 NEXT→ |