『いつか、その街まで、私に会いに来てくれる?』
 大きくなって、指輪が見ずとも進んでいけるほど強くなった、その時に。
 指輪を渡すために、私に会いに来てくれる?

 その日が来るまで、私はいつまでもあなたを見守っているわ――。




 臨也はぱちりと眼を覚ましました。一人で眠るには余りにも広すぎるベッドに横たわったまま、そろそろと右手を持ちあげて頬へと指先を這わせ、指先が濡れるのを冷静に感じます。少し身じろぎをすると、途端にこめかみを涙が伝い落ちる不快な感覚。泣きながら目覚めたのは、これが初めての事ではありません。そのたびに臨也は苦々しい気持ちで舌打ちをし、やるせない気持ちで、今では人差し指に収まった銀色の指輪を眺めるのです。


 解ってる、あんたの事を忘れちゃいないよ。
 でも、まだ、見つからないんだ。


 胸の内でそう唱えて、なだめるようなくちづけを銀色の指輪に落とします。それからううんと伸びをしてベッドから起き上がり、緩慢な動きでコーヒーの用意をして、いつも通りの朝を迎えるのです。
 情報屋となった時から、臨也の朝は変わりません。コーヒーを飲みながら、パソコンやその他のメディアに一通り眼を通し、めぼしい情報がないか、面白そうな気配がないかを確認して一日の行動を決める。臨也の興味を惹くような情報があれば、臨也は楽しくてたまらないと言ったように唇の端を持ち上げ、何も変化がないと「つまらないなあ!」と言いながら椅子をくるりと回す。それが臨也のここ数年の決まりごとでございます。
 なのでその朝も臨也はいつもと変わらず、真黒なコーヒーが入ったカップを片手に見るともなしにモニタを眺め、自動的に流れていく情報にざっと目を通しておりました。時折コーヒーを口に含み、退屈そうに頬杖をつき、あまり面白そうなことがないと悟って眉をしかめた、その時。

 「В самом деле?」

 臨也の口から、なつかしい草原の言葉が飛び出しました。
 嘘だろ。そう呟いて、臨也は、検めるようにモニタを食い入る様に見つめました。何度も何度も、声に出し、眼で追い、指先でモニタの文字に触れ、臨也はその言葉を確認します。満足がいくまで検めた後、臨也は脱力したように椅子の背もたれにからだを預けて、夢見るような口調でもう一度同じ言葉を呟きました。

 「……嘘だろ?」

 臨也は堪え切れないと言うようにくつくつと笑いだしました。そして華奢な指先でまぶたを覆い、くつりと笑んだかと思うと、臨也は「はは、は、はっははは!」と、大きな声をあげて椅子を蹴倒し、立ち上がって囁きます。

 「参った。あんたが愛した通り、神はいるのかもしれないな。」

そう呟くと、臨也はさっと振り返って眼下に広がる真昼の街を眺めました。どこを見渡しても人ばかりのその街、臨也が愛した人間がうごめくその様を惜しむように見つめ、それからぷつんとパソコンの電源を落とし、クロゼットから冬用のコートをひとつ取り出して颯爽と家を出ます。笑いながら。
 いつもの癖でコートのポケットに両手を入れようとして、臨也はふと立ち止り、人差し指の銀色の指輪に目線を止めました。それから、かつてこどもの時分に女に見せていたような、無邪気でやさしい笑みを浮かべ、もう一度、指輪にくちづけを落としました。そしてくちびるを指輪に押し当てたまま、そっと囁きます。
 今度は、確かに、嗤って。

 「Тем не менее, смерть」

 ――神と言っても、死神だけどね。




 揺らした波の間から浮かび上がる、わずかな砂粒を追って手探りを続けた瞬きのような時間。それらをひとつひとつ思い起こしながら、臨也はこれから踏むであろう雪原の大地を懐かしくまぶたの裏に思い描き、跳ねるようにして彼方へと向かいます。




 物語は、再び、草原の生まれるあの国へ。


 こどもの願いをいま一度、叶えるために。