それは安息の一日。神さえも眠る第七の日。 全ての凶事、そして祈りは、神の瞼が伏せられたひとときに。 その日、こどもは常どおり、母親が起き出す前にそっと家を出て教会へと向かいました。こどもが歩くたびに女がこどもに渡した銀色の指輪が跳ねるように踊ります。こどもはそれを眺めながらはにかむように笑い、別れを思い出してすこしばかり肩を落とし、けれども最後の一日なのだから笑って送り出そうと決意をし、足を進めます。こどもを照らすかのように朝日が輝き、さえざえと澄んだ空気が取り囲む、昨日と何も変わらぬうつくしい一日。 しかし、果たして本当に、その日はそれまでと何も変わらない一日だったのでしょうか? 教会へと向かう道をたどるなかで、こどもは、異変を感じ取りました。いつもとは違うざわめき。いつもとは違う空気。いま聞こえたのは悲鳴? そしてそのあとを追うようにして聞こえた荒々しい言葉と誰かの悪態、騒音、いったい何が? こどもの胸は嫌な気配を感じ取り、ざわりと不安で揺れました。明らかに昨日とは違う気配に怯え、こどもがほとんど駆けるようにして、最後の曲がり道を曲がった、その時。 こどもは、運命そのものの残酷さを、垣間見るのです。 そこに現れたのは色彩。 こどもの瞳の色によく似た深い緋色。 そして体。 人形のように力なく倒れ伏した肢体、 ――死体? 見まごうはずもありません。あれはこどもが愛した艶やかな頭髪。あれはこどもが焦がれた透き通るような瞳。生きる喜びに満ちていたましろな肌は、いまでは永遠に色を失い、頬が血液によごされていても拭う事も出来ないまま。投げ出された華奢な四肢。そこここに残された乱暴の跡。これ以上語らずとも、何があったかなど明らか。 悲劇は、暴力は、運命は。 女を、蹂躙していったのです。 こどもはその瞳を見開きました。悲鳴をあげたいのに喉が渇いてことばが出ません。呆然と立ち尽くすこどもの横を様々な言葉が流れ去ります。 『ほら、どいたどいた!』『ああいやだ、ここらへんも治安が悪くなったね』『いや、あの女を見てみろよ。誘ったんじゃないのか?』『聖職者だよ?』『聖職者が聖人とは限らんだろう』『違いない』どっと笑い声がおこります。『犯人は捕まるのかねえ』『つかまりゃしないよ! 今頃遠くでほくそ笑んでるだろうさ』『嫌だね、そこらへんにいるかもしれないわけか』『あんた、自分が襲われるとでも思ってるのかね? こりゃ驚いた、鏡をみなよ!』ここで再び、笑い声。 そばに立つこどもには、これらの会話はもちろんすべて聞こえておりました。 けれど何も聞こえてはいなかった。 こどもの頭の中では、女の死体を見たその時から、ひとつの言葉が力を持って暴れていたのです。 『――あの子の瞳が赤いのがすべていけないのよ。』 『あの子の瞳が』 僕の眼が? 『あの子の瞳が赤いから』 僕の、眼が 『あの子がいなければ』 『あの子の瞳が赤じゃなければ』 赤くなかったら 『幸せになれたのに』 ――幸せに、なれたのに。 こどもは叫び声をあげてその場から走り去りました。かつて母親が唱えた呪詛はここに結実したのです。最後に聞こえた声は果たして誰の声に聞こえた事でしょう? 母親の声? こどもが現実に聞いたあの声? それとも、 ――女の、声に? こどもは獣のような叫び声をあげて駆けます。吼え、猛り、啼き、呪い、もつれる足で、逃げて、逃げて、逃げて。 逃げ切れずに。 ぼくのせいだ、ぼくのせいだ、ぼくのせいだ! ぼくがいたから! ぼくが、 ぼくの、ぼくのこの瞳が、赤いから! だから、彼女は、死んだんだ、 ぼくと関わったから、 呪われたぼくと接したから、 だから彼女は死んだんだ!! こどもは駆けました。 走って走って走って走って、街を出て草原を抜け森へさしかかる頃にこどもの息は切れ、倒れ込むようにして地面へと横たわります。草原に倒れ伏したこどものかんばせは、涙に濡れていました。嗚咽ともつかぬものが喉から溢れ出てこどもの息を不規則に切り刻みます。ひとつ息を吸うたびに、絶望が空気となってこどもの中に満ちて行くのが解りました。 こどもは草原に涙をしみこませながら、女とのうつくしい思い出を反芻しました。女が言った言葉のひとつひとつがはっきりと思い起こされます。たくさんのあたたかい笑顔。やわらかなその手の感触。あまやかな香り。この頬にキスしてくれたこと。そして、次いで思い浮かぶのは先ほどの変わり果てた姿。思い出したくなどないのに光景はあまりにも鮮明で強烈、こどもは先ほどの死体をもう一度自分で構築しなおし、同じ悲劇をもう一度繰り返します。血に染まった娘の姿を詳細に思い出すにつれ、こどもは、死んだ女を見た時に、自分が抱いた感情がまざまざとよみがえるのを感じました。 絶望。衝撃。驚愕。悲嘆。それから? ……それから? こどもは、無意識のうちに娘からもらった指輪をちいさなてのひらでぎゅうと握りしめ、ふっとほほ笑みました。 嗤ったのです。 自分の願いがかなえられた事を、知って。 こどもは泣きながら嗤い、からだを震わせ、涙をこぼしました。 快哉を唱える心を抑えつける事はできません。こどもは涙ごしに手の中の指輪を見つめ、静かに嗤いを続けます。 ああ、ああ! もう夢が破れる事はない! 彼女は、自分が愛した彼女は、愛した時のまま、永遠にうつくしい姿のまま。これから先、思い出が穢されることもない。永遠にうつくしいままで彼女は姿を消した。これから先、幻滅することもない。愛したひとは、うつくしいままであり続ける。 これを、安堵せずにいられるだろうか! 自分は、安心したのだ! あの死体を見て、自分は、確かに! 花が枯れていつかみじめな姿を晒すように、初恋が時間が経てば色褪せてしまうように。 いつか自分が愛した彼女もまた、うつくしい時を終え、花が萎れるようにして自分の思い出を穢すのではないか。 ならばそうなる前に。 思い出が思い出としてうつくしくあるうちに。 その花がうつくしくあるうちに、誰かの手によって、摘まれてしまえば――。 こどもは、誰も知らぬところで――それこそ、自分すらも把握できぬうちに、ひっそりと願っていたのです。 残酷な祈りは、それゆえに純粋。 そして、こどもの願いは聞き届けられたのです。もう二度と彼女が失われる事はありません。誰かによっておとしめられる事も、時間を経て幻滅する事もなくなったのです。こどもの記憶の中の美しい娘は永遠に美しいままで生き続け、決してこどもを捨てることなく、いつまでもこどものために笑うのです。 こどもの夢は、永遠に破られない。 倒れ伏した地面から伝わる濡れた草の感触。こどもはほほ笑んでそっと眼を伏せました。 もしもこの世に本当に神がいるのならば、あれほどに慕い、自分を救ってくれたひとの死を願うような自分がゆるされるはずはない。 このまま命が終わるのならばそれでもいい。ここで息絶えようと構わない。 彼女はもう、失われないのだから。 |