それは、こどもが7歳になった春先の事。いつものように母親から逃れるために家を出たこどもが、いつも通り教会へと足を運んだその時の事です。教会の浅く開かれた扉に手をかけて、音をたてないようにそっと押し開いたその時、こどもはいつもと変わらない景色の中に、何かが絶対的に異なる姿を見つけるのです。

 地面にひざをつけ、神に一心に祈りをささげるその背中。修道士の格好に身を包んだその人は、こどもの世界から瞬時に音を奪い、時間を消し去りました。何て事のない姿、ありふれた祈り、けれどもその人だけがこどもの景色の中で浮かび上がって見えます。その祈る姿は神聖で、音もなく、かつてこどもの世界に舞い降りた神のようにこどもに光を与えました。ただただこどもの赤い瞳はその背中へと注がれ、しばりつけられたかのように逸らす事も出来ません。身動きも出来ずにその背を見つめるほかこどもにできる事はありません!

 こどもの視線が止まってから、いったいどれほど時間が流れた事でしょう。背に降りかかる赤い視線に気付いたのか、どうか。その人は祈りを終えて振り返り、自分を一身に見つめるこどもに眼をやります。ぱちりと視線が交差した、その時。女は決してその忌まわしき色をした瞳を見ても視線をそらすことなく、ふっと笑んだのです。
 こどもは狼狽いたしました。僕が見ている事に気付くと誰だって眼をそらすのに、どうして。こどもが動転して呼吸を乱すその一方で、女は平然と微笑み、こどもの方へと歩み寄ります。神を背負って、こどもだけを見て、やさしく、淡く、笑みを浮かべて。体重すら感じさせぬ足取りでこどもへと寄るその人の美しさ、神々しさと言ったら! こどもの心臓がからだじゅうで暴れまわります、周囲の騒音などまるで聞こえはいたしません。ああ、今やこどもの世界には、眼の前の女しかおりません!

 女はすっと歩みを止め、先ほどと同じように床に膝をつけ、目線をこどもと合わせてゆっくりと微笑みます。そして余りの事に動けずにいるこどもの手を取って囁きかけます。やさしく。ましろに。

 『こんにちは、あなたもお祈りにきたの?』

 神を愛する女と、神を知らぬこどもの運命が、そのとき重なったのです。

 女に話しかけられたこどもはと言えば、もちろんそのように優しく問われた事など初めてのこと。それどころか瞳を見つめられた事すらありませんのでそれはもう大騒ぎ! 言葉など解らずとも、こうしていま手を握るその人がこどもを気遣っているのは解ります。けれどこどもには返す言葉がないのです。返す言葉など知りはしないのです。こどもは当惑し、何も言えずにただ動物によく似たうめき声をあげるばかり! そのうちにこどもの麗しい瞳にはじわりと涙が浮かびます。せっかく話しかけてもらえたのに、返す言葉も知らずまごまごと口ごもるしかない自分が情けなく、恥かしく、とてもいたたまれなかったのです。人の優しさに触れたというのに何もできない、まさしく獣のような自分がひどくちっぽけに思えたのです。こどもはとうとう俯きました。すると頭上で女がひとり呟く声。

 『そう、あなた、ことばが解らないのね?』

 優しい問いかけです、けれどその言葉もこどもを委縮させるには十分でございました。きっと呆れてしまったに違いない、そうしてこどもがぎゅうと体をちいさくすると、女は再びふっと笑ってこどもに言うのです。

 『だいじょうぶ、何も心配することはありません。』

 だいじょうぶ。女はそう繰り返します。何も問題はない、気にする事はない、あなたは泣く必要などない。それを示すかのように、女はやさしくこどものからだを抱きしめました。そうしながら女はひとり胸の内で、『わたくしが言葉を教えればよいのだわ』ですとか『すべては神の御心のままに』ですとか、そういった事を考えていたのですが、もちろんそのような事などこどもには知る由もありません。ただただはじめての抱擁に身をこわばらせるばかり。そして女のやわらかなてのひらは、そのこわばりを解くように、ゆっくりとこどもの背を撫でるのです。こどもには女がそのような身振りをする意味など解りません。けれども、この人が自分を見捨てずにいるのだ、という事は、解ります。ぎゅうと抱きしめるその力からもそれは明らか。女のてのひらが何回か背を撫でたあと、こどもはようやく、身も世もなく、獣のように声をあげて泣きました。嬉しいのだか悲しいのだかも解らないままに、こどもは泣きます。女はその涙のひとつひとつをすくいとって、こどもの背を撫で、また繰り返すのです。

 『だいじょうぶ、何も心配することはありませんよ。』


 初めての抱擁と受容がどれほどこどもの小さな胸を打ったか。
 それは、不用意に愛に慣れたわたくしたちには、一生をかけても解らないでしょう。




 その時から、こどもと女のつたない学校が始まりました。
 それがどれほど大変なものであり困難を極めたかはみなさまのご想像通り、あえて言葉にする必要はないでしょう。すべては物語のように順調に進むとは限りません。けれどまこと僥倖な事に、女はたいへん根気強く、こどもは聡明で、何よりも学ぶ意欲を持ち合わせておりました。それまで母親と自分しかいなかったこどもの世界に入り込むことば、色、音、世界! それはどれほどこどもを魅了した事でしょう、初めて恋を知った少年がそれ以外を考えられなくなるように、煙草の味を覚えた大人が手放せなくなるように、こどもは女が教える世界にのめり込みました。満足と好奇心と飽くなき欲求。女がよい教師であるのと同じく、こどもはよい生徒でありました。
 何より、何かをあたらしく覚えるたびに女がよろこぶその姿! その姿のためにとこどもは必死になって勉強をいたしました。彼女を喜ばせたい、彼女と会話をしたい、こんなにもよくしてくれる彼女にはやく恩返しがしたい、その一心で! こどもは学び、驚くべき事にふたりの学校が設立されてから半年ほどで、こどもは女とある程度の会話を楽しむことができるようになっていたのです。


 女はいつでも優しくこどもに語りかけます。決して秀でた造形というわけではありませんでしたが、内面のうつくしさが女の顔に輝きを与え、見ているものを穏やかな気持ちにさせるような笑い方をします。その笑みによって降り注ぐ魔法は、例外なくこどもにも分け与えられました。砂糖のように甘いほほえみ、穏やかな人柄、神を愛するその横顔。こどもはそれらすべてに魅せられておりました。


 けれど、歓びと悲劇は表裏一体。歓びが太陽のように現れれば、悲劇は瞬きの後に私たちのもとに姿を現すのです。それは誰にも例外なく降り注ぐもの、こどももまたそのさだめから逃れる事はできません。女と出会った事はこどもにとってまごう事なく歓喜でありましたが、女と出会い言葉を知った事は、同時にこどもに悲劇をももたらしました。
 母親との、決定的な離別を。


 それはこどもがことばを覚え、会話を覚えたそのあとの事。いったいどんな運命が気まぐれを起こしたものか、こどもは、耳をふさぎ聞かぬふりを続けた母の言葉に耳を傾ける事を決めたのです。そう、意味が解らないながらも、かつてこどもの目の前で繰り返されていたあの呪文を、解読する事を。愛の言葉でない事など十分に知っています。けれどもこどもは知りたかった。自分が幼い時分から今日に至るまで、ずっと繰り返されている言葉は一体何なのかを。母は一体何を言っているのだろう。一体何を呟き、一体何を僕に言わんとしているのだろう。もしかしたら――。もしかしたら、そこから、姿も知らぬ、いまだ見た事もない父の姿を知る事が出来るかもしれない。もしかしたら、そうした言葉の中から、母親が僕を愛してくれる手段を見つけられるかもしれない。そうした希望を抱いて。こどもはその日、母と向き合うことを決めたのです。
 こどもは浮かれておりました。女と出会い世界を知った事で、こどもはこの世の全てが幸せであると勘違いをしていたのでしょう。
 そんな事があるはずはないのに。

 いつもならば母の目覚めを待たずに教会へと向かうこどもは、その日、母が起き出すのを待ちました。家の片隅でじっと息を殺して、母が何事かを囁き始めるのを待ちました。そして、母親が椅子に腰かけ、窓の外を見ながら呟いたその瞬間を見逃さず、そっと耳を澄まし――――。
 こどもは眼を見開きました。母親の唇から呪文が吐き出されるにつれて、そのちいさなからだがわなわなと震えます。こどものばら色をしたくちびるからは掠れて消えた悲鳴がひっきりなしに漏れ出ておりました。


『あの子の瞳が赤いのがすべていけないのよ』


 母親は笑っています。愛を囁くように、優しい声音で説くように、言い聞かせるように、言葉を続ける。

 『あの子の瞳が赤いから。』
 『あの子の瞳が赤じゃなければよかったのに。』
 『あの子がいなければ私は幸せになれたのに。』
 『ああ、どうしてあの子の瞳は赤いのかしら? あの子が呪われているからかしら? どうして?』


 『どうしてあの子が生まれてきたのかしら?』


 こどもは知ってしまったのです。

 母親の言葉がただしく呪文であること――、こどもを殺す、呪詛である事を。


 こどもは今度こそひっと悲鳴をあげ、教会へと逃げました。教会の中ならば悪魔の囁きは聞こえない。教会の中であれば救われる。救いはそこにしかない。
 こどもは自らの神に向かって走り寄りました。慌ただしい足音に振り向いた神は、――女は、こどものからだを優しく抱きとめます。何があったのかなどを尋ねはいたしません。この呪われたこどもに何があったのかなど、考えるまでもないのですから。
 その日、ふたりが会話を交わす事はありませんでした。


 そして、明くる朝。こどもがまた以前と同じように母親が起き出す前に家を出て教会に向かうと、当たり前のように女がこどもを待っておりました。こどもは泣きはらした眼を恥じるように、少しばかり俯きながら女のもとへと近寄ります。女はいつものようにやわらかく微笑んでこどもを迎え入れ、そしてこどもと目線を合わせるようにしてひざを折ります。そして、自分の首元にかけていた革紐を、そっとこどもの首にかけました。
 それは女がいつも身につけていた装飾品でありました。革紐の先には銀色の指輪がはまっています。こどもが常々、女の動きに合わせて銀色の指輪が揺れるのを美しいと思っていたその指輪が、いまこどもの胸元で光っているのです。こどもは戸惑い、また驚きました。ぱっと女を見上げると、女はやわらかい笑みを崩さず、こどもの赤い瞳をしっかと見詰めたまま、くちびるを開きます。

 『私はね。誰が何と言おうと、あなたの瞳をとてもうつくしいと思っているわ。』

 女はそこでふっとほほ笑んで、『嘘でも、なぐさめでもありませんよ』と言葉を続け、こどもの絹のようにつややかな髪の毛をそっと撫でながら、さらに言葉をつむぎます。

 『誰に何を言われても、前を向きなさい。うつむく必要などありません。あなたの瞳は誰の目も羞じることなく見つめる事が出来るのです。』
 『その赤い瞳は神からの贈り物。あなたにふさわしい輝きだと思ったから、神はあなたの瞳をそのように美しくお作りになったのですよ。』

 『だから、あなたは何があっても前を見ていなければなりません。』

 それこそが神に応える事なのですから――。

 女はそう言って、もう一度、やさしく笑いかけました。そしてこどもの細すぎる首にかけた革紐と、その先に通された銀色の指輪を手にとって、『これをあなたに預けます』と囁きます。

 『辛い事があったらこの指輪を見なさい。そして、私がいつでも見守っていること、あなたが一人ではない事を思い出しなさい。』
 『そしていつかこの指輪がいらなくなるぐらい、あなたが強くなり、運命に打ち勝てるようになったら、私に返しに来てくださいね。』

 私はその時まで、あなたを、見守っています。
 そう言って、女は指輪にひとつくちづけを落とします。そして最後にもう一度、こどもの頭を撫ぜました。

 こどもは奇跡を目の当たりにしたような気持ちでした。与えられるはずもないと思っていた奇跡を得、何も言う事もできずに、ただただ女の瞳を見つめる事しかこどもにはできませんでした。けれども女にも、こどもにも、それで十分でありました。
 母親に否定をされた今、こどもは誰かに受け入れてほしかったのです。誰かに赦してほしかったのです。誰かに? いいえ、他でもない、この女に、こどもは愛されたかったのです。そして女は愛を与えた。惜しみなく。
 この時、こどもの胸にひとつのひかりが灯ったのです。

 ただひとり、認めてくれた彼女に恥じぬように、うつくしく生きよう。
 何があろうとも、けっして倒れることなく前を見よう。
 ――彼女がそれを望むと言うのなら。

 この時より、こどもは他の誰でもなく、ただ女のために生きていたのでしょう。そして女もまた、ある意味ではこどものために存在していた。こどもを輝かせるために女がいて、こどもを生かすために女がいた。こどもにとって、女は全てでした。それは憧れであり崇拝。恋にひどくよく似た憧憬だったのです。




 しかし、皆様、思い出して下さいませ。
 女はなぜある日突然こどもの前に現れたのでしょう? 女に出会う前からずっとこどもは教会に通っていたのに、女の姿を眼にする事はなかった、その理由について考えてみて下さいませ。
 そう。女は、ある日ふらりと遠方からこの土地へとやってきたのです。巡礼のために。そして修道女としての務めを果たし、いま、また遠方へ向かおうとしている。
 こどもを置いて。

 それは、女のたっての希望でありました。修道女となる事を決めた時からずっと、こどもが生まれ育ったこの地よりはるか最果てにある、長い歴史を誇る修道院で神に祈りをささげる事を願って女は信心を積んできたのです。そして今、抱き続けた願いが叶わんとしている。女はその知らせを聞いた時、飛び上がらんばかりに喜びました。ああ、ああ、わたしの神様! あなたの懐で私は祈りをささげる事が出来るのですね! そう思い、神に一通りの感謝を述べたあと、女の顔ははっと曇りました。思い出したのです。自分しか頼るもののない、あのかわいそうなこどもの事を。
 ですが、思い出したところで、いったい何が出来るでしょう? 長年の願いを捨てて、こどもが庇護を必要としなくなるまで傍にい続けろと? 何のために? 女は、中途半端な優しさを与えてしまった事を悔みました。いつか別れる日が来る事を知っていたのに! 途中で放り出すような真似をして、あの子は私を怨むだろうか。呪うだろうか。やはり世界には愛などないのだと、自分が愛されるはずはないのだと、そんな誤解をしないだろうか。
 女は苦悩いたしました。けれど何度悩もうとも選べる答えはただひとつ。女にこどもを連れて行く事はできません。女とこどもは、別れる運命にしかないのです。
 女は旅立つ十日前、こどもに、別れを告げました。

 『遠くの修道院へと行かなくてはならないの』

 おお、こどもにとってはまさしく晴天の霹靂! どうか心を静かに聞いてほしいと言われたところで落ち着けるはずもありません! 女は、こどもの顔からさっと色が消えて行くのを見て、用意していた言葉をすべて消し去りました。何を言ったところでいまのこどもには無駄だと悟ったのです。女が抱いていた夢をとつとつと語ったところで何になりましょう? 何の助けにもなりません! こどもにとってゆるぎないのはひとつ、女がこどもから離れ、去り、もしかしたらもう二度と会えないかもしれないという事だけなのですから!

 女はいつものように穏やかな笑みではなく、さびしそうに、申し訳なさそうに、うすくほほ笑みました。

 『いつか、その街まで私に会いに来てくれる?』

 大きくなって、指輪が見ずとも進んでいけるほど強くなった、その時に。
 指輪を渡すために、私に会いに来てくれる?

 そう言って、女は慰めるようにあわく笑いかけます。たわいもない口約束。こどもにはその約束の無意味さが痛いほどに解りました。こんな事を約束していったいどうなるだろう! けれどもこどもは零れ落ちそうな涙をぐっとこらえ、女を見、いつも女がそうしてくれていたように優しく笑い返しました。今まで女が自分にしてくれた事を思い出したのです。
 この人は僕に全てを与えてくれた。それだけでじゅうぶんではないだろうか。世界を教えてくれた。見せてくれた。ならばこれから先に自分が見る世界と、女は、いつまでも永遠に繋がり続ける。それで、じゅうぶん、過ぎた幸せではないだろうか。

 『……約束するね』

 あなたが教えてくれたように、凛と、生きる事を。

 女はその言葉を受けて、ようやくいつもの微笑をたたえました。

 『ええ、約束。』

 その日が来るまで、私はいつまでもあなたを見守っているわ――。




 それから。
 あまりにもやさしく、うつくしく、せつない十日間がはじまりました。
 惜しむようにしてふたりは時を過ごし、こどもは今までに見せなかったぶんを取り戻すように笑いかけ、女はそれをやさしく抱きとめます。そうして幾夜が過ぎ、さて、旅立ちの前夜。


 運命がどれほどたやすく人をもてあそぶか、こどもは知るのです。