今宵。 わたくしが語りますのは、神のない大地で紡がれた夢の物語。 途方もなく美しく、比類なく憐れな風の御話。 ひとりの男とひとりの女の、歓びと、悲劇。 舞台は草原の生まれる地。 凍てついた幻想の街、呼吸すら凍る場所、歴史が生まれ綴られる国。 この凍土につかの間の春が訪れるころ、ひとりの赤ん坊が産声をあげました。 赤子に名前はありません。誰にも呼ばれる事のない名前など、何の意味がありましょう。 春に生をうけたその赤子は、女神に愛された麗しい顔立ちをしておりました。一目見ただけで誰もが恋に落ちずにはいられない。大人になったならば、どれほどの人間がこの子の微笑みに心を奪われる事だろう! 母親は生まれたばかりの子を腕に抱きながら、その誕生と見目を祝福いたします。父親は満面の笑みで、その絵画のような母子の姿を見守ります。なにしろ待望の赤子は男の子。いずれは自分のように、いいえ、自分が成しえなかった夢ですら叶えられるような人物にと、輝かしい未来は膨らむばかり。夫婦は夢を語り合い、大きくなった赤ん坊の姿に想いを馳せては、その時を待ちます。 その瞳が開き、自分たちを捉える瞬間を。 きっとあなたに似ているわ、いや瞳はお前だろう。 そうかしらきっとあなたよ、だって見てこの目もと。眠っている時のあなたにそっくり。 どうかな? さあ眠れる王子様、はやく私たちにその瞳の色を教えておくれ。 日に日に期待は高まり、いよいよ夫妻の胸ははちきれんばかり! 語り合いその寝顔を見守るうちに日々は過ぎ、いくつかの夜と同じ数の朝を越え、とうとうその瞳が瞬くときが訪れます。幼い瞳が目覚める様はまるでばらのつぼみが花開くよう、ああ、その無垢な瞳が開くとき、夢が破れるなどと一体誰に想像できた事でしょう! 瞳は輝きます。 運命よりも暗く、 ――血よりもなお、赤く。 おお、かつてエカチェリーナをも虜にしたその色、その紅玉! 瞬きのたびに我々を魅惑するその瞳の色は赤! 宝石であったならば誰もが愛した事でしょう、誰もが所望したことでしょう、ですがそれは瞳でありました。灰色の瞳が最も美しいとされるその国において、その瞳は呪いです。呪われた色、忌むべき色、――あってはならない色。 待ち望んでいた瞳は、両親から言葉を奪いました。皮肉な事に、その赤い瞳は赤子の美しさに磨きをかけます。神であっても魅せられずにはいられないような怜悧な輝きを赤子に加えます。この世のものとは思えぬ美貌、しかし過ぎたるものはすべて厭われるのが世の習わし。この美しい瞳は、両親の間から愛を奪い去るには十分な輝きでありました。 赤子は父が母を罵倒する声を子守唄にして育ちます。 お前が悪い、お前がいけない、いやあれは本当に俺の子なのか、違うだろう、そうだと言え。 時には荒々しい物音を背景にして言葉は行き交い、母親の身を少しずつ削ります。そして責める側であると思い込んでいる父親もまた、自らの言葉によって消耗していきました。自分の言葉が呪いとなって降りかかります。幸せな赤子の誕生は、幸せな生活に終止符を打ちました。 父親はかつて愛した妻を置いて、草原の果てへと姿を消します。 どことも知れぬ場所へ。ひとりきりで? いいえ、新たな女と共に。 母親は泣き、喚き、嘆き、呪います。夫であった男を、自らを、そして赤子を。 忌むべき瞳とともに生まれた赤子は、母親から愛される事はありませんでした。しかし不思議なことに、放り出される事もありませんでした。愛はなくとも、最低限の衣食住だけは与えられていたのです。そこにどんな理由があるにせよ――そう、母親が本当は我が子を愛していたからなどという理由はこの瞳の色を前にしては通りません。おそらく母親は待っていたのでしょう。ただでさえ見目麗しい呪われたこどもがより美しく成長し、より高く売れるその時を、息を殺して。しかしそれもまた推測。あなた方が人間が生まれつき備わっているという善意を信じたいのであれば、私にそれを止める権利はございません――それは不幸中の幸いと言って差し支えないでしょう。何しろ外は呼吸さえも凍る土地、放り出されてはひとたまりもありません! そうして、母親の乳を飲み、ぼろきれのような服を着て、赤子は成長をいたします。うつろな表情をして何事かを囁き続ける母に笑いかけ、手足をすらりと伸ばし、自らの足で歩く事を覚え、愛くるしい顔立ちは輝きを増して行きます。 けれどもその顔が微笑みに彩られる事は、ついぞありませんでした。 こどもというのはわたくしたちが思っているよりもよほど敏感なもの。このこどもも例外にあらず、母親が自分を愛していない事をもちろん知っておりました。母が自分に向かって囁く言葉が愛を告げているものではないことぐらい、言葉を知らずとも解ります。星が巡り自分の足で動き回れるようになると、こどもは自分を愛していない人間とともに過ごす時間に耐えきれず、母親が起き出す前に家をそっと抜け出し、母親の意識が夢に絡めとられた頃に戻るようになりました。おお、この寒さを一人きり! こどもの孤独な行軍が、その時より始まったのでございます! とは言ってもこどもが行ける場所などたかが知れたもの。はじめのうちこそ、あっちをふらふらこっちをふらふら彷徨っておりましたが、無駄な行軍は体力を削るだけ。どこか寒さをしのげる場所をと眼を巡らせて、こどもは見つけるのです。 ――神の眠る、その場所を。 こどもは、街の中に突如現れたその建物に圧倒されておりました。荘厳で誰もの息を奪うその建物。いっそ蟲惑的なまでにこどもを誘います。蝶が花の香りにいざなわれるように、そしてなす術なく蜘蛛の糸にかかるように、こどもの心は絡めとられています。これは何? これは一体なに? ふらふらと足はその建物に近づきます。気付いた時にはこどもの腕は扉を押し開いておりました。 そろりと足を踏み入れた建物の中は静謐な空気に満ちています。沈黙がひとつの言語となってこどもの耳に神の言葉を囁きかけておりました。上から下へ、天井から床へ、こどもの赤い瞳はゆっくりと内部を見渡します。眼が眩むほど高い位置に据えられた天窓から、その下に広がる壁画へ、磔にされた神へ。うつくしいアーチとまばゆい光、磨き上げられた床面、きらりと空気さえもが光かがやいて見えます。その透き通るような頬は涙に濡れておりました。 母親という絶対的な神を失ったその赤い瞳に、自分と同じく孤独である神は、どれほど美しく見えた事でしょう。 それから、こどもは何かがあると教会へと逃げ込むようになったのでございます。いつでもこどもは礼拝用の椅子に行儀よく腰をかけ、誰かの祈りを聞くともなしに聞き、神を見、そして問いかけます。 本当に神がいるのなら、どうか、教えてほしい。 どうして僕が生まれてきたのか、――その、意味を。 愛に飢えたこどもの上にも、その裏側にいる幸福なこどもの上にも、平等に星は巡ります。 そして草原の上の月が消えるころ、救いは彗星のようにこどもの前に現れたのです。 ――尾を引いて、燃え尽きるように。 |