きっかけは何だったのか。直前の会話の内容を忘れるようになった、1か月前の記憶ですら曖昧で、先ほどまで自分が何をしていたのかが解らないと言ったそぶりを見せるようになった。心配した新羅が検査をして、それから専門的な病院にまで回した。結果は残酷なものだった。


 新羅は常に平和島静雄について研究したがっていたが、それは個人的な好奇心というよりも、懸念によるものだったんだろう。特化した性質と異常な発達は、果たして身体の他の部分に――そう、脳に影響をもたらす事はないのか? 新羅は本人には何も言わず、平和島静雄が傷を負って新羅のところを訪ねるたびに、隠れて検査を行っていた。本人にも、喧嘩相手の俺にも、あまり能力を助長させるような真似はするなと新羅は口すっぱく言ったよ。あれは、恋人との平穏な生活を邪魔してほしくないから出た文句じゃなかった。忠告だったんだ。残念ながら、意味はなかったけどね。

 そこまで注視しておきながら何も出来なかったのは、新羅の手落ちじゃない。ただただ平和島静雄の肉体が医学の常識を超えた、それだけだ。化け物の肉体になった時と同様、彼の変化は急速だった。新羅と専門医の見立ては前向性健忘――ある時点以降の記憶を新しく銘記できない、というものだった。過去の事、例えば弟の事なんかは覚えているけれど、昨日自分がした事なんかは曖昧になる。
 では、平和島静雄は、どの時点以降の記憶を新しく覚える事が出来なくなっているのか?

 俺は神なんて信じていない。けど、その話を聞いた時、神の存在を信じずにはいられなかったね。無情で非道な事なら、俺を初めとして人間でも出来る。ただ、何と言うのかな…、使い古された表現だけれど、蟻の行列をいじる様に、全く何も感じずに人間の運命を左右できるのならば、それはもう神という人知を超えたもの以外存在しないんじゃないか。人間が信じる神の愛や慈悲なんてものは、ただのおまけで、ただの気まぐれなんじゃないか……。
 なーんて。どうでもいい事を言ったね、話を戻そう。

 平和島静雄は、身体が進化を受け入れて一時的に完成した、高校までの記憶しか将来的に持てなくなる。告げている新羅にしたって、こんな事を受け入れるのは辛かっただろうに、何よりも辛いのは目の前で親友の大切な人間が泣いているという状況だ。彼女は何も言わなかったよ。いつか、そう遠くないうちに、恋人が自分の事を忘れる。何ひとつ残らず。そう言われたっていうのに、彼女は何も言わずにただ泣いた。新羅を詰ったり神を恨んだり、ましてや自らを憐れんだりなんてしなかった。ただ一言、静かに言った言葉が何よりも新羅の心を抉った。


 ――私たち、結婚するのよ?


 新羅は謝った。意味がない謝罪だったけれど、目の前にいた彼にそれ以外何が言えただろう。
 ……そして、に、なんて言葉が返せただろうね。


 さてさて。周囲の動揺をよそに、平和島静雄は現実を驚くほどあっさりと受け止めた。彼は体の異常性を理解した上で、どこかが勝手に帳尻を合わせていてもおかしくないと言う事を誰よりも解っていたんだろう。

 「それに俺、元からそんなに頭もよくねえし。変わんねえよ」
 「……いつか、君は僕やセルティや、の事も、忘れてしまうんだよ」
 「そうだよなあ。それがまあ、辛いっちゃ辛いけど……どうにもならないんだろ?」

 そう。平和島静雄は諦めていた。諦めと言うよりも、はじめから受け入れていた、という方が正しいのかな。彼はや新羅、運び屋なんかが彼の友人や恋人である事を、人間が生きていく上で当然の関係ではなく、化け物にとっての奇跡、という風に受け止めていたのかもしれない。フランケンシュタインが抱いていた恐れを彼はまた持っていたのかな。いつか愛しい少女を自らの手で殺すかもしれない恐怖を、もしかしたら。いや、これはただの想像だ。実際に平和島静雄がその時どう思っていたのかなんて、もう今さら知りようもない。…だって、彼は忘れてしまったのだからね。

 もちろん俺が気付く事だ、新羅だって平和島静雄の諦観をその言葉じりから受け取った。理解したうえで新羅は言ったよ。

 「僕とセルティはしつこいよ。君が忘れても思い出すように迫るからね」

 その言葉を聞いた平和島静雄の反応、想像できるかい? 全く、忌々しい男だよ。目を丸くした後に声を出して笑った。それから、少しだけ視線を下して、いつもの激昂が幻のように思えるほど落ち着いた声でただ一言告げた。何よりも、諦めを如実に示した言葉だったよ。

 「――ありがとな」


 当然、平和島静雄はに別れを切り出した。このまま一緒にいてもいつか忘れるだけなら、まだ覚えていられるうちにちゃんと別れたほうがのためだと思ったんだろう。こういう時に恋人が取るべき行動としては、どちらが正しいんだろうね。いや、正答も誤答もない、ただ――自分の事を思うなら、どちらのほうが傷が浅いのだろう? 自分の気が済むまで傍にいて、もう手の施しようがない程傷ついて痛めつけられたら、記憶を忘れた彼の傍を離れるべきなのか? それとも、恋人の言う通りに、普通の恋人同士のように別れて、最愛の人間から忘れられる、という苦痛を味合わないようにするべきなのか? は前者を選んだ。多分、大多数の人間が選ぶだろう道をね。終わった後だから言える事だが、間違いなく、愚かな選択だったよ。


 絶対に嫌だと彼女は拒絶した。忘れてもいい、思い出してもらうから。思い出せなくってもいい、新しく覚えてもらうから。だから、そんなに簡単に終わりにしないで。彼女は言い張った。
 ――全く、陳腐な言葉だ。


 よくそんなひどい事が言える、って? 俺は傍観者だからね、映画を見ているのと何も変わらない。映画を観終わった後に、陳腐だとか馬鹿げているだとか、どんな感想を言おうが自由だろう。ああ、コーヒーをぶちまけるつもりならやめた方がいいと思うよ、聞きたがっている話はまだ終わっていないからね。そう。それがいい。最初に言ったはずだ。正確な情報のためとは言え、よくこんなところに差し向けたね、って。君は周囲や新羅の話から、俺がどんな外道か聞いてきたはずだろう? 解った上で情報を求めてここに来たんだ。君は話を聞きたいなら、語り手がどんな人間であっても耐える必要があるんだよ。別に俺には君を引き止める理由はない。どうするのかな? いくらアポイントメントが入っていないとはいえ、俺にも仕事はあってね。
 話を続けても、構わないのかな?