言い張った彼女の疲弊はすぐに表れた。最初は根気強く、自分の事を忘れた恋人に、思いだしてもらおうと必死だった。そのうちに、思いだしてもらう事が不可能なのだと悟った。もう、自分の存在がかつての恋人の中には消えていて、高校までの人間関係で完成されている事を否が応でも学んだ。彼女はそれでも、恋人の片鱗をうかがわせる記憶を突きつける。平和島静雄にしてみれば、目の前の女は頭がおかしい女にしか見えなかっただろう。だって、彼の中では目の前の女は恋人でもなんでもなく、初対面の見知らぬ馴れ馴れしい女でしかないのだから。

 はそれからしばらくして、新羅の所を訪ねた。それが全ての終わりだったよ。


 「本当に、やるのかい」
 「……私の事、軽蔑する?」

 は自嘲を浮かべて新羅にそう尋ねた。何も言葉を持たない新羅がただ首を横に振ると、は見せかけの笑顔を浮かべたあと、人形劇の幕引きに相応しい涙を一粒落として語り始めた。


 「どうすればいいのか解らないの」

 きっと、きっと生きていけるって思った。でも、毎日少しずつ記憶が消えていく度に、昨日まで私に笑いかけてくれた静雄がふって消えて、私の事を他人を見る冷たい眼差しで見る。尋ねる声だって、それまでとは全く違う声で、私に向かって誰だって問いただすのよ。そのたびに説明する。昔に2人で撮った写真、忘れてしまっても思いだせるようにって静雄の文字で恋人って落書きをした写真を見せる。それに写ってるのが私、ね? 笑いかけても静雄は胡散臭い顔をして、時には、笑えない冗談だな、なんて私をまるで頭がおかしい女みたいに一蹴する。写真の中の不器用な笑顔も私の幸せそうな顔も、全部が切りつける、今の私たちを否定する。

 ひとつひとつを、根気強く、記憶の片隅にひっかかって、どうにか納得してくれるまで説明する。でもその記憶のかけらも毎日少しずつ小さくなって消えていく。それをずっと繰り返して、私の事を知らない静雄を何回も見て、何度も何度もやり直すの。まったくの別人であれば、私だってこんなに苦しく思わなかったかもしれない。でも煙草を吸うしぐさも、たくさんあるデザートの中からプリンを選び取るその嬉しそうな顔も、笑い顔も困った顔も、どれもが私が知ってる静雄なのよ。何も覚えていないはずなのに、同じ銘柄の煙草を買ったりする。静雄なの。私が好きだった静雄が、私の事を知らない女みたいな眼で見る。もう耐えられない。もう。


 この告白を聞いた新羅に、何が出来ただろうね。新羅は言ったよ。医学なんて無力だって。何かは出来る、でも全てが出来ないなら、そんな中途半端な物は持つべきじゃない。怒っているのか? ああ、そうかもしれないね。別に俺にとって新羅は知り合い以上に親しいものではないし、彼の方も俺を友人と見なしてはいるだろうが信頼はしていないだろう。そんな関係ではあるけれど、俺は彼の医療には世話になっているし、――どうかな、人間としてその性質に好意を持っているんだろう。自分の欲望に素直な人間は好ましいしね。そんな人間に対して、最初から解りきっていた結末を通じて無力感を味合せたに、俺は怒っているんだろう。
 でも、彼女個人に抱いた感情と、その憤りは直結するわけじゃない。初めて会ったっていうのに、ここを訪ねた彼女はまるで古くからの友人みたいだったよ。一度きりの邂逅だったが、平和島静雄がのぼせるのも解らないでもないような女だと思った。平和島静雄に、その名の通り平和に彼女と生活してほしかった。シズちゃんに会って初めて、そんな事を心から思ったよ。いや、それはもう叶う事がないと解っていたから思えたんだろう。俺は天の邪鬼だからね。叶わない事のほうが祈りやすいんだ。


 忘れられるって、どんな気分? は最初にそんな事を尋ねたよ。それに対して俺は、そんな事を聞いてどうするつもり、と返した。だってそうだろう? それ以外に何を言っても変わりはないよ。寂しい苦しい清々した虚しい、言ったところでそれは俺の気持ちでしかない。心構えも何も出来るわけがないんだから。

 だから、彼女は最後に、ただ俺に会いたかったんだろう、と思った。平和島静雄の過去を知っていながら、忘れられていく俺と会って、時間を共有したかったんだろう、ってね。そこにどんな意図があったのかは解らない。ただ俺には時間があった。更に言えば、少しばかり興味も湧いていた。目の前の愚かな女にね。

 彼女は高校時代の俺たちの話を聞きたがったよ。もう平和島静雄から聞いただろうに、あなたの口からもう一度、彼の話を聞いて、それで終わりにしたい。あなたと私と彼の、3つの方向から見た平和島静雄の記憶を持って、忘れるまで覚えていたい。彼女はそう言ってたよ。忘れるまで覚えていたい。あんな事を経験した後じゃなきゃ口をついて出ないような言葉だと思った。いや、芝居じみたセリフだとも思ったけどね。俺は彼女が望むがままに全てを話した。彼女は声を出して笑う事はなかったが、ずっと唇の端に笑みを浮かべていた。俺からも2,3質問した。どこが好きだったのか、これからどうするのか、とかそういう事かな。残酷な質問だと思う? どうだろうね。平和島静雄に忘れられてしまった俺たちにとっては、その時にはもう何を言ってもいつくしむべき遠い過去の話だったんだよ。


 やわらかく揺れる金髪も、その瞳も、姿も、何もかも。目にした瞬間に、他の全てが褪せて見えた。
 出会ったときから、ずっと。

 きっといつか私はこの喪失を忘れて、また新しい誰かと恋に落ち、永遠の愛を誓って新しい命を繋ぐだろう。その時彼は私の事を覚えていない。知らない。彼の中で私は永遠にいなくなる。それでも。
 誰かと触れ合うたびに私は、彼にはじめて触れたときのその心の震えを思い出すだろう。道端で通り過ぎる誰かの煙草の匂いにだって、顔も格好も違うバーテンダーにだって、私は静雄の影を見出すだろう。私の中の静雄はいつまでも消えない。私が、いつか忘れてしまうまでは、永遠に。


 彼女は平和島静雄から離れた。何も言葉もいらない別れだった。接触を絶った瞬間から、彼女の存在は平和島静雄にとって無になる。部屋には何も痕跡を残さなかったそうだよ。最初の内は、ふたりが過ごした時間を示すような物から記憶がよみがえるのを期待していたみたいだったが、離れる事を決断した彼女はそれら全てを捨てた。彼女と知り合ってから人間じみたはずの平和島静雄の部屋は、それまでと同じでまた、ただ帰って眠るだけの場所に戻った。彼はそれに違和感を抱かない。だって、始めからそうだったんだからね。


 これが、俺が知っている平和島静雄との話の全てだよ。
 平和島静雄はその後、心配した弟と一緒に暮らすという話が持ち上がったそうだが、記憶を失っても頑固なままの兄がそれを受け入れたという話は聞かない。まだ交渉は続いているだろうが、弟の勝算はないだろうね。仕事はそれまでと変わらずにやっているそうだよ。上司が中学時代に出会った人間で、記憶を失わないというのも大きかった。ただ、バーテン服はやめたみたいだけどね。彼はそれが弟が贈ってくれたものだと知らないし、今の自分の職業がバーテンではない事から、着ている理由がないと判断したんだろう。こうして彼は少しずつ、昔の彼でありながら昔の彼とは違っていく。

 はあの後、池袋も東京も離れてしばらく実家へ帰った。その後の詳細は知らないが、新羅から聞いた情報によれば結婚したそうだよ。平和島静雄のような怪物じみた人間とではなく、一般社会に生きるまっとうで誠実そうな男らしい。彼女は俺と話した時に言っていたように、誰かと新しい恋をしたんだ。別に責めているわけじゃない、別れた恋人の事を、ずっと好きでいなければならない決まりなんてどこにもないからね。それが自然なんだよ。寂しそうに見えるって? それは君の、平和島静雄とがうまくいく事を願っていた君の勝手な期待じゃない? いつだってそうなんだよ。恋人が別れただけなのに、いつだって第三者の方がいい人だったのにとか幸せそうだったのに、とか、ひどい時にはなんで別れちゃったの、なんてくだらない質問を外野から投げつける。そこにどんな理由があってどんな納得をしたかなんて、本人たちにしか解らないのにねえ。


 とにかく。俺が知っている話はこれで全部だ。もう聞き残した事はないだろう? あとは本人から聞きなよ。まあ――聞けないから、こんなところまで来たんだろうけどね。ああそうそう。そういえばは、風の噂では第一子を授かったとか聞いたけれど……ああそう、それはおめでとう。でも、それで解っただろう。君が今さらとやかく言ったところで、君の眼から見た昔の幸せそうなはもう戻らないし、それはにとっては余計なおせっかいに他ならない。君が勝手なフィルタを通して見ているだけで、彼女はいま、新しく幸せになって生きようとしているんだよ。何がしたいのか分からないけれど、余計なことはしないほうがにも、その夫にも、更に言えば平和島静雄にとっても一番いい事だと思うけどね。いや? 忠告なんてものじゃない。ただ、少しだけ長く生きた大人からのお願い、かな。


 さて、帰りの新幹線の時間はそろそろかな。気を付けて。お姉さん――に、どうかよろしく。




ひとつの恋の終わりについて新宿の男が語ること