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 やわらかい実に沿わせるようにしてナイフを押し当て皮をむく。そのあいだ、臨也はとうてい鼻歌にふさわしからぬリベルタンゴをふんふんと歌っては、いつもの椅子に腰かけてくるりくるりと世界をまわしていた。その光景と手の中にある桃を見比べ、私は誰にも気付かれないようにふっと溜息をつく。手の中といわず台所中に、みずみずしく、いっそ毒々しいほどのにおいがただよっていた。
 桃が好きだなどと嘘でも聞いた事がない。気まぐれに愛を与えられたくだものが、気まぐれに興味を注がれている女の手の中にある。それはひどい皮肉だし、そんなことを想っては自分を嗤ってむりやりに慰めようとするのは滑稽だ。

 何も考えることはない。何も考えてはいけない。わたしはなににも傷ついてはいない。
 ただ無心で桃の表皮にナイフをあてる。臨也は家に帰ってきたときと変わらずに、まだこどものような顔で桃がむけるのを待っているのだろうか。そう思い、伺うようにして臨也のほうに目をやったそのとき、臨也の眼がぱっと閃いてふふとほほ笑むのを見た。そしてひっきりなしに回転させていた椅子を机の向かいになるように止めて、考え込む時のいつもの癖で右腕を口元に持っていく。それを見て私はとてもかなしい気持ちになった。

 きっと臨也はもう、桃の事など忘れている。

 目線を落として手の中の桃を見る。忘れられてしまったかわいそうなものを見る。臨也の忘却はふつうの人たちの忘却とは意味が違う。思いだす事も頭の隅に引っかかる事もない、完全な消去。いま臨也の頭の中にあるのは思いついた自分の考えだけで、それを前にしては食べ物などたいした価値を持たない。かわいそうに。私はもういちど心のなかでつぶやく。不完全な臨也に向けて、そしてむきだしになった桃に向けて。

 さっきまであなたは彼の心をとらえていたけれど、でもそれはさっきまでの話。なぜならあなたはもう忘れられてしまったから。あの男はもうあなたのことを忘れてしまったから。

 そう心の中で口にしながら、私は自分の言葉がひどい暴力となって自分に向かって殴りかかってくるのを感じた。いまあの男に桃を差し出したなら、臨也はなんというだろう。顔をしかめて、桃は嫌いなんだと一蹴するだろうか。それとも自分で買ってきた事を都合よく忘れて、気がきくねえどうしたの? と尋ねるだろうか。もしかしたら、ああそういえばさっき俺が買ってきたんだっけ、と思いだすかもしれない。本当に奇跡のような確率で。

 私はもういちど、自分の考えに浸っている臨也の顔を見やる。そしてどうしようもなく絶望している自分に気付く。
 臨也はほんとうにちいさいこどものように無垢にわらっていた。自分が一番ただしいと思いこんでいるこどもみたいに、そして、まちがっていたとしても周りは自分に甘いから、自分がすこし笑いかけたりするだけで許してくれる、そう思いこんでいるこどもみたいに。

 途方に暮れて立ち尽くす私をよそに、臨也は飽きることなくピアソラのリベルタンゴをくちずさんでいる。空調のきいた、外界から隔離された天国のようなこの部屋で。その地獄のような音色を聞くともなしに耳にしながら、私はぼんやりと、いつまでこの部屋にいられるのかを考えていた。


 (いつまであなたは私の事を覚えていられる?)