世界を知らない


 煙が視界を覆う。まともに吸いこんだ馬鹿が咳き込む耳障りな音が響いて、臨也は知らずのうちにほほ笑んでいた。いいね。生きているという気がする。必死になって生をもぎ取ろうとしている、誰かの息遣いだけがいまの臨也にとっては確かだ。こんな場所にあっては。
 号令をかける前に空を仰ぐ。爆風は雲も煙も死の気配も流し去って、あるのはただ空だけだ。
 臨也はあの空の色を知らない。


 殲滅も好きだが、それ以上に内部崩壊させる事が好きだ。間者を送りこんだり不穏なうわさをばらまくだけでいい。疑心にかられた人間の醜い動きを見ている時に心が静まると言ったら、今以上に遠巻きにされる事だろう。
 遠くで銃声が聞こえる。悲鳴。カエサル、何千年経とうとあんたの言葉は色褪せないね。
 ふと足元に眼をやった。こんな場所でも花は咲く。臨也はその花の名前を知っているが思いだせない。
 何色に輝くのだったか。


 あの瞬間に胸をよぎった感情を思いだそうとする。無駄な努力だ。臨也は諦めた。
 何も初めての事ではない。部下から裏切られたり憎悪をむけられたり殺意をありありとぶつけられたり、そんな事は自分に限らずどこの部隊でもある事だろう。頻度だけは別だろうが。臨也はむしろそうした危険を楽しんでいるところさえある。部下に意図的にきつくあたったりと、精神を追いこむ真似もする。あのねえ臨也、兵士も無限じゃないんだよ。君の酔狂で壊されちゃたまったもんじゃない。軍医である新羅のため息は鮮やかによみがえるのに、先ほど浮かんで消えた感情だけはどうしても出てこない。
 流れ弾がかすった右腕が痛い。臨也を真っ向から見つめたあの瞳には、死は何色に見えたのだろう。


 ここ最近食べ物を食べた記憶がない。


 ああ。
 そろそろこの馬鹿げた一方的な勝ち戦が終わる。臨也の呼吸はその時どうなってしまうのだろう。生きていけるわけがない。
 なら、


 終わってしまうのなら。


 軍靴の先で花を踏み潰す。結局名前は思いだせないまま。
 いつか永遠に眼を閉じる時には、記憶も色彩もこの手に蘇るだろうか。