は女としか関係を持った事がない。過去には男と付き合った事もあるそうだが、それらはすべての中ではなかった事、もしくは取るに足りない事としてそっと記憶の中に封印されている。ゆえに彼女が語る恋の話はどれもかわいらしい女の子が相手のものばかりだったが、不思議な事に臨也はその話を聞く事が嫌いではなかった。何より昔の恋人だったりいま付き合っている彼女の事を思いだしている時のの顔は、さほど美醜に興味のない臨也ですら時々見とれるほどに美しい。その表情が見たいから話すように促すのか、それとも単純にに興味があって過去や今の恋愛について知りたいのか。答えはおそらくどちらでもない。 が身振りをまじえて幸せそうに恋人について話すたび、ラストノートがふわりと香る。どこのブランドの香水なのか、そんな下らない事まで臨也はについて知っているというのに、は臨也についてはほとんど何も知らないし何も尋ねない。興味がないのだと言う。「あなたが女の子だったら、私の対応も違っていたんでしょうけれど」。そう静かに語る指先にはピンクゴールドの指輪がはまっている。いま付き合っている恋人から貰ったというその指輪の値段ですら、臨也は既に知っていた。 臨也は基本的に知りたがりなのだと思う。知らない事があるのは気持ちが悪いし、気になった事はすぐに調べないと気分が悪い。目の前の事象に興味があるのではなく、ただ気になったから、もしくは知らないで済ませる自分が嫌だから調べるだけで、根底にあるのは自分への愛だけなのだろうとぼんやりと思う。についてもそれは同じだ。年齢や身長、体重も病歴も経歴も嗜好も大体のところまで臨也はそらんじているが、しかしそれはの事を異性として愛しているから気になるのではなく、単純に目の前に未知のものがあるから調べただけというのが正しいのだろう。 でもそれは、こうして向かい合ってコーヒーを飲む理由にはならない。 臨也ももちろんその矛盾に気づいている。知的好奇心だけなら調べて終わる話なのだ。それなのに臨也はの存在を知ったその時から何度も何度も接触を図っては無理やりに約束を取り付けている。それは約束というよりも脅迫に近いものであったが(会ってくれなければかわいい恋人に何をするか解らないなあ、なんて、そんな温和な誘い文句があるだろうか!)、誘われるはいつだってふふと笑って臨也の一方的な約束を受け入れる。狼狽する事も拒絶する事もなく、それこそずっと前から付き合いがある友人からの誘いみたいに。 は時々口にする。私は最初の対応を誤ったのね、と。 「最初に会った時に、みっともなくうろたえていれば、こんな風にあなたと恋人の話をする事もなかったでしょうにね」 「そうだね。君がうろたえていたなら幻滅しただろうに」 「残念だわ。今からでもどうにかならないかしら」 あなたと会っているせいで、ここのところ恋人が拗ねて大変なの。そう言っては薬指にはまった指輪をくるりと回した。癖なのだろう。少しでも考え込む事があればはすぐに指輪に触る。臨也はそれを眺めながら、この女が次に何を言うかを楽しみに待つ。「早く私に飽きてくれるといいのだけれど」。そう言って指輪から目線を上げたは、じっと臨也を真正面から見つめてたおやかに笑んで口を開いた。 「私があなたの事を好きになれたらよかったのに」 残念だわ。は先ほどと全く同じ言葉を繰り返してくすりと笑う。 「私があなたに一目ぼれでもしていたら、あなたはその瞬間に私の事を忘れたと思う」 臨也はそれに笑ったままで答えない。 それが何よりの答えだった。 「あなたが一人の女に入れ込むだなんて」 天変地異の前触れかしらね。矢霧波江はそう言って、持っていたファイルを壁に備え付けられた棚に押し込んだ。臨也はその言葉に対し、人差し指にした銀色の指輪をいじりながら満面の笑みを浮かべて何でもないように言う。 「愛しているわけじゃない」 臨也がそう返すと、波江はその言葉と臨也を冷たい眼で見放して言う。 「気付いていないの?」 あなたが愛していないと口にする事自体が問題なのよ。 波江は神様か何かみたいにそう告げてくるりと臨也に背を向けた。もうこれ以上話す事はないというサインだ。臨也にしてもこれ以上話す事などないので会話が打ち切られた事はそれでいいのだが、波江の言葉はいつまでも臨也の胸に留まり続けた。俺が愛していない事が問題だって? 何が問題だ? 今までだって俺は誰の事も愛してなんか来なかった。に対してだってそれは同じで例外ではあり得ない。何も変わらない。問題があるとすれば、他の女と違ってが臨也の容貌にも作られた内面にも惹かれず、また素をさらしたところで拒絶する事もないだけだ。でもそれはふたりの関係にも、臨也の人生にも、の恋愛にも干渉しないささいな事だろう。 臨也は鳴らない携帯電話のディスプレイを確認しながらそう思う。の存在を一方的に知ってから2か月。その2か月の間に臨也がを呼びだした回数は、両手では数えられなくなっていた。 臨也はの恋人の話を聞くのが嫌いではなかったし、の外見にしたって好ましいとは思っている。だがおそらくそうしたの一風変わった、だが正直なところありふれた性的嗜好に興味をそそられたわけでもないし、良くも悪くも平平凡凡な容姿にも性格にも関心はなかった。恋に落ちるなどもってのほかだ。しかし、それならばなぜ恋を覚えたばかりの青年のようにに会いたいと思うのだろう。 おそらくその理由を知りたいがために臨也はに会い続けているのかもしれなかった。そのように思いつめなくとも、衝動や気まぐれという言葉で片付けてもいいのだろうが、しかしその言葉で分類して済ませるには今の自分はいささか異常だ。臨也は現状を面白いと冷静に見つめる一方で、どこかでふわふわと落ち着かないような気持ちも抱えていた。 とにかく、臨也が飽きたらこんな関係は終わるのだ。飽きるまでという期限付きなら、それまでを有効に活用するべきだ。臨也は自分の嗜好の移り変わりが早い事を十分に理解したうえでそう思っていた。 そう、思っていたのに。 気付いた時には、臨也はの手を取って乱暴にベッドに引き倒していた。悲鳴もなくがベッドに転がる。起き上がろうともしない。まるで死んでいるようだった。手足を自由に投げ出して、髪の毛を散らして寝転がったは蝶の標本にも見えたし、磔にされた神のようにも見えた。馬鹿馬鹿しい。臨也は乱暴にベッドに乗りあがってを見下ろした。きっと今自分は笑っても怒っても泣いてもいない。ただただ冷めた心で見る、はやはり、美しかった。 何に激昂したのか、一体何に心を動かされたのか。 私があなたの事を好きになれたらよかったのに 臨也の部屋で、向かい合って、今日だっては恋人について話して。 愛しているわけじゃない 何も変わりなどない。 は臨也を愛さない。臨也はを好いてなどいない。からの愛だって必要となんてしてない。 変わらないのに、だが臨也は、どうしてもをその時、 あなたが愛していないと口にする事自体が問題なのよ 壊して、傷つけて、自分だけしか見えなくなればいいと、ただ祈るようにそう、 そう、思ったから。 臨也。 他に言うべき事も取るべき反応もあるだろうに、は他のすべての動作を忘れたかのように、ただ静かにそう口にした。臨也。臨也には何も答える事が出来なかった。いつもみたいに余裕ぶって軽口をたたいたりを嗤ったりも出来ない。ただ部屋の隅に置かれた時計の秒針だけがふたりの心を刻み続ける。かちりかちりかちりかちり。急いて聞こえるのは臨也の心に余裕がないからだ、ならにはこの音はどのくらいの速さで聞こえているのだろう。いや、まず秒針の音などこの女に聞こえているのだろうか。 まるで自分以外見ていないとでも言うように、じっとこちらを見つめるこの女に、こんな雑音が。 臨也。もう一度は臨也の名前を呼んだ。はじかれたように臨也はの服を脱がしにかかる。フリルとレースがあしらわれたブラウスのボタンを馬鹿みたいにまじめに上から順に外していく。恋人同士がするみたいに。 そこまでしてもは暴れだすこともなかった。かといって諦めていたり悲観したり受け入れたり覚悟を決めたわけでもないらしい。ただ本当に目の前の行動に興味がないのだと言わんばかりの様子だった。 の恋人の話は数多く聞いたけれど、性交についての話は一度も聞かなかった事を思い出して、臨也はようやく自分が今からしようとしている事を理解した。俺は今からを抱こうとしている。なぜ? そんな事は臨也にも解らない。抱いてみなければ、終わってみなければ、そこに理由があるのかどうかすら臨也には解らない。 ブラウスのボタンをすべて外すと、下着に隠された乳房が少しだけあらわになる。臨也は身体的な興奮など感じていなかった。儀式にも似た気分だった。さよならを言うための儀式だった。 ただ、心臓の音が、うるさい。 「 」 のくちびるがゆっくりと動く。静かだった。神聖な告白だった。臨也はそれを聞かなかった。聞こえないふりをした。からそのような言葉を聞いたのは初めてだったが、それがこの状況から逃れたいがためのその場しのぎの言葉ではないと解るだけに臨也の胸は痛んだ。それは心からの言葉だった。心からは臨也の事を愛し、赦そうとしている。 欲しがっていたのはこの言葉なのかもしれない。愛していると心から言ってほしかった。臨也の事を見て、臨也の事を愛し、他の女の話など聞きたくはなかった。だが、一方でその言葉を求めていたわけではない自分がいる事もまた、臨也はよく知っていた。 臨也には解らなかった。自分が今どうして欲しいのか、何と言ってほしいのか、どれだけの感情を込めて自分の事を見てほしいのかが。愛していると言ってくれれば心は満たされると思った。こんなにも渇き飢えたように思うのは、この女が臨也を愛さないからだと、そう思っていた。一度でもその言葉を聞けば心は満たされて、それ以降臨也はへの意味のない片思いを忘れてを捨てる事が出来ると、そう思っていた。だがこうして心をこめて言われた言葉ですら臨也には響かない。どうすればこんな意味のないセックスを止められるのか解らなかった。なにが不満でこんな馬鹿げた動物的な行為に及ぼうとしているのかも含め、臨也には何も考えられなかった。 あえかな息遣い、ぎしりと軋む音がしたのはふたりの真下にあるベッドだろうか、それともふたりの心臓だろうか。 は臨也の名前を呼び続ける。吐息の合間に、息を呑むその直前に、諦めるように静かに。 「好きだよ」 は繰り返す。臨也はもうそれ以上その言葉を聞きたくなかった。心を締め付けるだけの愛の言葉など。 「違う」 臨也の暗い告白を受けて、の眼が瞬く。臨也はそれを見て、ようやくどうにかして嗤う事が出来た。だがもう手は止まらない。 「臨也」 の下着に手を掛ける。がここで微かにでも息を呑んだなら、臨也はもしかしたらこの行為を止められたかもしれなかった。 「……臨也」 は笑っていた。子供みたいに無邪気な笑顔だった。聖母のように鮮やかな笑みだった。 「好きだよ」 そう告げたのは、臨也なのかもしれなかった。 「」 ――でも、それは、違う。 その時、きらりと何かが臨也の視界の端で光った。 の薬指にはまった指輪だった。 結婚など出来ない事を十分に理解しながら、そんなものをはめて永遠を誓い合う恋人たちを嗤ったのが遠い昔の事のように思える。やけに冷めた心でもって、臨也はの子供みたいな手を取った。ぽたりと汗のしずくが輪郭を伝ってのなめらかな肌に落ちる。それが、合図だった。 臨也はの左手の薬指から指輪をはずし、それを部屋の隅に向けて適当に投げ捨てた。大理石の床にぶつかったのか、高い音が響き渡ってふたりの呼吸すら止める。はそれでも何も言わなかった。抵抗する事も批難する事もなかった。ただ静かに、指輪のなくなった左手を臨也の頬に寄せて笑うのだ。だいじょうぶだとでも言うように。臨也にはそれがたまらなかった。右手で乱暴にの左手を頬から外し、適当なところに縫い付けて行為を再開する。到底抱きたい気分などではなかった。だが、この無意味な行為に及ぶ以外に、臨也にはの事を忘れる術が見つからない。スプリングが嫌な音を立てる。今度こそ軋んだのは臨也の心臓だった。 無理やりに身体を繋げて荒い息を吐く身体を重ねて。決して触れてくれるなと無理やりに絡め取った指先、体温。ひとつになったようだとか、境目がなくなったようだとか、そういう事を映画や小説なんかではよく眼にするけれど、この時のふたりは決してひとつになんかなっていなかった。指先を絡めたところで臨也の人差し指にはまった銀色の指輪がふたりが溶け合うのを阻む。身体を繋げて知った事など、ふたりは別々のものであり、決してこれから先もひとつにはなれないし、思い通りになんかならないという悲しくて間違いのない現実だけだった。臨也は隠す事もなく泣いていた。の顔は見れなかった。きっと彼女も泣いていた事だろう。 もう何も考えたくなどない。ひたすらに身体を動かして一瞬だけ息を詰める。この時に溢れたのは、の涙だろうか、それとも臨也の想いだろうか。 誰も知らない。 |