「さあね? 俺にも解らない」 なぜ、と問われた臨也はそう言って笑った。いつもの自嘲じみたものでも、仮面のような薄っぺらなものでもない。それは新羅が今までに見た臨也の頬笑みの中で、一番人間らしい不器用なものだった。 「ただ、そうだな……。これは、契約なんだよ。俺とのね」 「契約?」 「そう。解りやすいだろ? 俺はもう以外を見ない、にもそうであってほしい。契約であり、意志表示だ」 そこに愛があるかどうかなんてさしたる問題じゃない。俺は一番卑怯な手段でもって、の一生を俺のものにすると決めた。それだけだ、そう言って臨也は先ほど新羅が出したコーヒーに口をつけた。以前までの臨也には到底似つかわしくない、穏やかな空気があたりを包む。この男がここまで人を愛するなどと、一体だれが想像できただろう。 ましてや、結婚など。 何がきっかけだったのか。他の女とで一体何が違っていたのか。 臨也が言うように、それらはもはや問題ではないのかもしれない。理由や経緯がどうであれ、臨也は結婚を選び、はそれを承諾したのだ。今となってはもう、セルティの臨也に対する疑念や、新羅の好奇心ゆえの疑問など、何も意味を持たないだろう。何より、こんな臨也の姿を前にしては、理由を尋ねる事など野暮だ。覚悟を決めた臨也は、ただただ美しいひとりの青年でしかなかった。それまでの悪意や厭らしさはどこかへ消え、いま新羅の目の前に腰かけた男は、恋人を愛するありふれた男のひとりに過ぎない。 臨也をまねてカップに手を伸ばした新羅は、しかしどうしても眼前の男に違和感を感じずにはいられなかった。 これは望んでいた事だった。臨也は他人に強制されて過去の自分を捨てたのではなく、自らの意志でを選んだのだ。ハッピーエンド、めでたしめでたし。ふたりはいつまでも仲睦まじく暮らしましたとさ。ありきたりの文句で終わる幸せな物語へ臨也は足を踏み入れたはずだった。 なのに、なぜ。 ふたりがふたりでいる事。それを新羅も望んでいる。だが、どうしても胸の奥でひとつの考えがざわめいて消えない。 ――ふたりは、遠くないうちに。 沈黙が部屋の中を自由に行き来する。新たな門出を前にした男に対する話題などいくらでもあるだろうに、新羅はそのどれも口にする事が出来なかった。初夏のひかりがカーテンの内布越しに部屋を照らす、その白々しさがさらに不安を掻き立てる。臨也にも同じ未来が見えているのかどうか。ふっと笑んで口を開いた臨也の言葉はやけに明るくて、それが新羅の胸をさらに締め付けた。 「ああ、そうだ。の外見でね、ひとつすごく好きなところがある」 「へえ? 君がそんな事を言うなんてね。どこだい?」 「解るだろ? 新羅。首があるところだよ」 「アハハ、臨也、切り刻むよ?」 懐かしむように、もう二度と戻らないものを悼むように。 眼を伏せながら男は語る。口元には微かな笑み。秘密が暴かれた事で男は安堵していた。 「それが、結婚を決めた後に臨也とした会話だった」 ふたりの結婚は正しく“契約”だったよ。結婚を機に一緒に暮らし始めるでもないふたりの生活や関係は、前と何も変わらないように見えた。よく言えばお互いの生き方を尊重したんだろうし、もっと冷たい言い方をするならば、ふたりはお互いに関心がなかった。どう生きていようと構わない、ただ生きていればそれでいい。……ただ、契約を守っていてくれるならば、その他はどうでも構わない。それがふたりの選んだ結婚だった。 そのような行為にどれほどの意味があるのか、俺は不思議で仕方なかったけれど、名実ともにを自分の物にした臨也は幸せそうに見えた。いたずらに不安で身を竦ませる事もない。あの時の臨也は誰の目にも解るほど満ち足りていて、……私には、それが空恐ろしかった。 満開の後には散る事しか残っていないし、完全なる静寂はかすかな身じろぎでも破られる。あの時のふたりは完璧すぎた。その次に何が待ってるかなんて誰でも解る、俺はその予感に震えていたんだろう。 ……には、臨也とふたりで幸せに暮らすだけの時間がなかった。 知っていたのはだけだ。医者としては口に出すのも恥ずかしい事だけれど、私が気付いた時にはもうすべてが遅かった。なぜ何も言ってくれなかったのか、なぜ臨也に教えなかったのか。怒りだしたいような、泣きたいような気持で私がそう尋ねると、は笑って言ったよ。 「終わりを意識しながら毎日を過ごすのは、苦しいから」 それは、にとっては最大の愛情表現だったのかもしれない。今となっては誰にも解らないけれど。 臨也が知ったのは、が倒れた後の事だった。それからの臨也はまるで見ていられなかったね。何もかもを失ったように見えた。未来への期待や希望なんか、あの頃の臨也には存在しなかった。このまま自分がいなくなったら、臨也もまた、きっと。そう思ったは、臨也を想ってひとつの言葉を口にした。 その時には、臨也に呪いをかけてしまったんだよ。 「約束する。100年経ったら、もう一度会いに来るわ。だから、お願い。100年先で私を待っていて、ね?」 根拠も何もない、こどもの結婚の約束と同じ、嘘だった。としてはおそらく、臨也に生きて欲しくて、そして新しい希望を見出して欲しくて口にした言葉だったんだろう。でも臨也はそうは受け取らなかった。臨也はただの生まれ変わりを信じて、誰も傍に置かずに100年という孤独をひとりで耐えきろうとした。蘇るはずもない恋人を待って。 ばかげてるよ。でも、……俺もきっと、同じ事をしたと思う。 でも、もちろんそんなの、長く持つはずがない。との結婚が臨也にとってどれだけ大きな出来事だったのか、私はその時にまざまざと思い知ったよ。臨也の衰弱は明らかで、いるはずもない影を求めて抜け殻のように生きる毎日が続いた。前のように残虐にも下衆にも徹しきれない、臨也は矛盾と葛藤でぼろぼろだった。 だから、私は、との約束を果たした。 それは、生前に交わした契約だった。私としても見ていられなかったから、その時はそれが最良の選択だと思った。それがこんな事になるだなんて、やっぱり君にとっては何物にも代えがたい存在だったんだね。 ……思い出した? 臨也。これが、君が忘れていた――いや、“が私に消してほしいと頼んだ”君の記憶のすべてだよ。 ――ねえ新羅、お願いよ。 私がいなくなっても、臨也が生きていけるようだったら、どうかそのまま見守っていてほしいの。いいえ、いえ、これはまた今度セルティが来てくれた時に頼む事にしましょう。ね? そちらのほうが確実ですものね。あの人は優しいから。ふふ、ごめんなさい、あなたが優しくないと言っているみたいね。でもそうね、あなた、優しくはないでしょう? あなたは自分の幸せを守るためなら私も臨也も無視できる人ですものね。いいえ責めているわけではないの、だって私だって同じだわ。これから私は、私の幸せと臨也の幸せを想って、あなたにひどい事をお願いするのよ。だからどうか顔をあげて聞いて? 新羅。 もしも臨也が、私がいなくなった後に幻を追い続けるようであれば、その時は。 あなたのその手で、臨也の記憶から私を消してくれる? いいえ、言ったでしょう? これは友人からのお願いではありません。仕事の依頼です。そう言えば私が引き下がると思ったのでしょう、でも残念ね、私だってお金は持っているわ。ねえ? お願いよ。 ……ありがとう。 ふふ、そうね、きっとずるいところは私たち、とってもよく似ていたのでしょうね。相手が持つそうした狡猾さを愛する事で、自分の卑怯な行為を肯定し愛そうとしていたのよ。きっと。 ええ。大丈夫。ねえ、新羅、だいじょうぶよ。こんなお願い、するだけ無駄だわ。 だって臨也は薄情ですもの、私がいなくなっても大丈夫。ね? そうだと信じましょう。ねえ、……ねえ、新羅、お願いよ。泣かないで。私もつらいの。こんな事をあなたに頼む、それがどれだけ残酷な事か解っていても、臨也の幸せを想うとそれ以外に選べないのよ。私は臨也の幸せのために、あなたにいらぬ重荷をかけるの、ひどい女でしょう、恨んでくれていいのよ。だからどうか泣かないで。私にとっても忘れられる事が幸せなのよ。ね? ……そんな事が、あるとは思わないけれど。 そうね、その時は諦めるわ。だって、あの人が私の事をそれだけ愛していたって事でしょう。それはもう私にはどうしようも出来ないものね? だから、最後まで付き合ってあげる。百年先に出会うのが怖いわね? 私きっと、先に置いていった事でずっと恨まれて過ごす事になるわ。これから先に喧嘩でも優位に立てないでしょうし、私はあの人を置いていった引け目から、もっともっとどうしようもなく愛してしまう事でしょうね。 ねえ? こう考えると、百年先にも楽しみはあるものでしょう? 声も出ない。 なぜ今まで気付かなかった、なぜ。 言い知れぬ違和感に気付かぬまま、俺はを忘れて一体どれだけの時を過ごしてきた? 気付いたのは偶然だ、しかし一度違和感を知ってしまうと、それは絶えず臨也の胸を苛んだ。想いだせない歯がゆさだけが募る、いくら記憶を漁っても決して鳴りやむ事のないざわめきの正体を解き明かすために、臨也は新羅を問いただす事に決めた。新羅を相手に選んだのは単純な理由から、……仮に記憶を操作できるとしたら、この闇医者しか心当たりがないからだった。 ――新羅。俺は、一体何を忘れている? その時にはもう、ささやかな疑念は確信に変わっていた。俺は何かを忘れている。何か、何かとても大切な事を。 新羅は溜息と共に首を少しだけ横に振った。溜息は感嘆でも落胆でもない、安堵、そして少しの諦念。私は君の事を見くびっていたのかもしれない、いや、こうなる事を見越してたのかなあ。そんな事を呟いた新羅は、いくつかの約束事とコーヒーを臨也に差し出して、ゆっくりと語り始めた。について、臨也が忘れていた事について、それまでのすべてについて。 ただ涙ばかりが頬を伝う。裂ける胸は途切れる事なくひとりの名を呼び続けていた。 ――、、。 ああ、なぜ、なぜ忘れていられた? いや、なぜ俺からすべてを消そうと思った? 、お前は、なぜ。 何があってもふたりで生きて行くと、そう、約束したはずだろう。 問いかけたところで答えは永遠に返らない。否。答えは“まだ”返らない。 臨也はいまだ止まらぬ涙をそのままに顔をあげた。マンションの一室とは思えぬほど広い天井を仰ぎながら、――少し、嗤って。 それを目の当たりにした新羅は、急きこむように臨也の名前を呼ぶ。臨也は新羅を見はしない。 「臨也。約束は守ってもらうよ」 「話す代わりに、何を聞いても死なない、っていう約束か。どういう事かと思っていたが……解ってる、死にはしないよ」 「……臨也?」 臨也はそう言って、歪んだ笑みを見せた。と出会う前によくしていた、懐かしい、ひどく見なれたその笑顔。臨也は流れる涙を乱暴に掌で拭ってソファから立ち上がった。わざとらしく両手を広げ、歌うかのように言葉を紡ぐ。目の前にいる新羅に向けた言葉ではない、ただ自分のために、自分に言い聞かせるかのように、静かに。 「は、出来もしない約束は口にしない女だった」 「臨也、」 「……が100年の後に蘇ると言ったのなら、それは、本当なんだよ」 「臨也!」 新羅の声は臨也には届かない。あの時のの願いも、新羅の決意も、臨也には聞こえない。 「さて、俺の記憶を消した償いをしてもらおうか」 ――100年の後にと囁くの声以外は、何も。 「出来ないとは言うなよ、俺はもうなりふり構ってなどいられない。協力してくれないのならば運び屋を殺す。嘘でもはったりでもない、俺は、手段を選ばない」 「……一体、俺に何をしろと?」 「なあに、そんなに難しい事じゃない。ネブラでしかいまだ成功していない先進技術、それを利用させてもらいたいだけだ」 「まさか、臨也」 新羅は思わずソファから立ち上がった。相変わらず臨也は笑みを崩さない。真っ白な昼間のひかりが舞台照明のように臨也を照らす、臨也は確かに泣いていた。笑いながら臨也は泣き、ただだけを求め、そのためならば自分の命も惜しくないと叫ぶ。臨也は狂っているのかどうか、そんな事は誰にも解らない。 「馬鹿げてる。臨也、仮にネブラが100年の眠りを可能にしていたとして、100年後にネブラが存在するという確証はどこにもないんだよ」 ――いや、何よりも。 「100年後にが必ず蘇るなんて、そんな、ばかげた言葉を君は本気で信じているの?」 「新羅」 名を呼ぶ臨也の顔は、目を見張るほどに真剣で。 新羅は言葉を失った。その一瞬で臨也は再び道化に戻る。にたりと笑って言う、瞳だけが苛烈なほどに赤く燃えていた。 「お前が俺の立場だったなら、迷わず同じ事をしていた。そうだろ?」 「……それは、」 すぐに否定できなかったのがここでは命取りだった。臨也は笑みを深くして言う。親父さんによろしく、と。 あの時と同じだった。 が、臨也の記憶を消してほしいと依頼した時と、同じ。新羅にいったい何が出来ただろう。 いったい、何が、出来ただろう。 臨也は冷たい眠りについた。人体冷凍保存という、成功するかも解らぬ科学を信じて。 実験サンプルを手にした森厳、その横で穏やかにほほ笑む臨也。新羅はそれを黙って見送り、セルティは何も知らずにの喪失を悼み続け、突然姿を消した臨也の事を案じている。 が見たら、何と言うだろう。臨也を笑うだろうか。ねえ、あなた本当にそんな事が出来ると信じていて? 彼女は優しく言う。臨也はばつが悪そうに森厳の横を離れ、の手を取って新宿のマンションに帰るのだ。今度こそふたりで、今度こそ幸せに。 叶うわけもない夢で心を癒そうとしている新羅を慰める腕は何も知らない。新羅の闇も新羅がした事も、何も。 臨也の最後の言葉が、消えない。 「礼を言うよ、新羅。……やっと、に会える」 - カポーティ |