きみはいつだって。 花の香りの、女の子。 まっしろなコットンレースのスカートがかすかに揺れた。アールグレイの特徴的な香りとまばゆいばかりの午後のひかり。ふたりの間に置かれた、ガラスのローテーブルと白磁のティーカップ。童話の中の主役みたいな女の子。ささやかに色づいた指先、湯気のむこう側のふせられたまつげ。少しだけ首をかしげた彼女は、人形のようにちいさな唇で、そっとつぶやいた。 「わたし、どうも臨也さんの事が好きみたいです」 どこが好きなのか、わたしにも、解らないのだけれど。 彼女はおだやかにそう言って、自分で淹れたばかりの紅茶に口をつけた。おいしい、とほほ笑む彼女は、先ほどの言葉など忘れたかのよう。臨也さんもどうぞ、と勧めるのを、臨也は苦笑で断って、さてどうしたものかと考えをめぐらせる。彼女のなんて事はない告白は、しかし、おどろくほど臨也のこころを掴んでしまった。感情を過信した、断定的な告白なんかより、ずっと。 胸がおどるようにざわめく。春を前に、浮足立つ昆虫にもよく似たこころで、臨也は言葉をつなぎ合わせる。 喉が、かわいていた。 「どうやら俺も、君の事が好きらしい」 君みたいな子のどこがいいのか、俺にも解らないんだけど。 そう言って、臨也は彼女をまねてカップに手を伸ばす。無心で飲み下した紅茶の味など、臨也には解らなかった。目の前のソファに腰かけた彼女は、ぱちりといちど瞬きをして、それから花のように笑う。一緒ですねえ、と少し間延びした言葉が、輪郭のない午後の空気を中でふわふわとただよっていた。臨也はなにも答えない。なにを言葉にしても、この雰囲気の中では浮かれた響きにしかならない気がして、ばからしかった。ただ黙って紅茶を飲みながら臨也は思う。 好きらしい、なんて、言わなければよかった。 ささやかな幸せそのもの。 一度、あきらめたつもりだった。手に入るわけがないし、手に入れるつもりもないと、欲しくないふりをした。だが、臨也はに出会った。そして、すこしだけ、期待をした。彼女となら、夢を見れるかもしれない。求めていたものに、ふたりだったら、手を伸ばせるかもしれない。そう、思った。 臨也にとっては、疲れた時に思い浮かべれば、いつだって元気になれるような、そんな女の子だった。女じゃない。女の子、だった。こどもっぽい、と臨也がばかにするような事で、なにをそこまでと呆れるぐらいに喜んだり、幸せを感じたり、悲しんだりするような。どこにも嘘がないままに。の言葉はいつだってまっすぐで、飾りもない。思った事はすぐ口にする、その率直さがどうしてか好ましく思える。 臨也にとって、はそんな恋人だった。 仕事に行き詰った時、ひとりでいる夜、心の中にの事を思いうかべるだけで臨也はいつだって幸せだった。あてもない未来を考える時、いつでもはそばにいる。情報屋をやめたら郊外に家を買おう。郊外じゃなくても、海外でもいい。海外の、それこそ童話みたいな世界に家を買って、はいつもみたいなまっしろなワンピースで俺を迎える。もしかしたら、そこにはこどもがいるかもしれない。ピンクの服が似合う、によく似た女の子がいい。つくられた幸せの中にいる自分を臨也は想う。いつもだったら、それまでだったら、下らないとすぐに切り捨てて、想像すらしないような未来について想いをめぐらせる。未来のいつだってふたりは笑っている。いつまでも幸せな物語をくりかえす、映画の中の恋人たちみたいに、ずっと。 とだったら、そんなばかみたいな夢も、信じられる。 ――信じられたのだ。 昼間のざわめきと、無言のビル街。誰とも解り合えない事だけを共通項に、笑い合う人の群れ。それを見下ろす臨也は嗤っている。この街が好きだ、この街を生きる人間が好きだ、この街を愛する自分が好きだ。今の臨也が求めているのは、混沌と執着と渇望の三つだけで、かつて、花とレースとおだやかなひかりがよく似合う、かわいらしい恋人を愛した男の面影はどこにもない。街を捨て、喧騒を捨て、平穏に暮らす事を想った臨也は、恋人が姿を消した瞬間に消えた。 結婚した。子供を産んだ。そして、そっと眠りについた。 もう、ずっと前の事だ。 は、もういない。 埋められない空白をもてあましたベッドで、ひとりきりで臨也は眼をさます。朝とは決して言えない時間に。が心配するからと、がらにもなく朝に起きては夜に眠るような生活をしていた。互いの互いの食生活を気づかって、いつのまにかできた規則ただしい食事の約束も、食後の紅茶の習慣も、すべてはがいたから意味があった。そのが、もう、いないのなら。 この家からあたたかな気配が消えてしまうまで、臨也はの喪失を信じきれずにいた。だが、のためにと常備していた野菜たちが、冷蔵庫の中でひっそりと死んでいたのを見た時、臨也は改めてがもういない事を思い知らされた。が好きだった、さまざまな果物のあざやかな色彩が臨也の眼を刺す。 その時、臨也は一度だけ、泣いた。 しかしそれもすべて昔の話だ。今はもう、なにも感じない。そう言いたかった。 だが、現実が、そして他ならぬ自分自身が、強がろうとする臨也を裏切りつづける。 好きな時間に起きて、気が向いた時だけ臨也は食事を摂る。がいた時のような、幸福に満ちた食事とはかけ離れた、生きるための最低限の義務としての食事。ささやかな食卓は、がいなくなった時に捨ててしまった。そうして今日も臨也は台所に立ったまま、ただ栄養を摂取する。左手に簡易食料、右手に携帯電話。真っ黒なコーヒーで、味気ない食事をむりやりに流し込んで、臨也は仕事用の机に腰かける。 いまの自分を、が見ていたら。 意識するでもなくそう想った自分を、臨也はいつだって、うまく嗤う事ができない。ずっと前の事だ、だからなにも感じない。そう、言いたいのに。 がさがさの指先で目頭を押さえる、きつく閉じたまぶたの裏でほほ笑むは、今日もまた、ほとんど名画のようなうつくしさでこちらを見つめている。白いスカート、淡くかがやく桃色の指先。やわらかなくちびる、そっけない化粧がほどこされた目もと、そこにキスするのが好きだった事。 記憶は美化に拍車をかけて、いつまでも臨也を縛りつづける。 永遠の恋人。特別な女の子。それが、臨也にとってのだった。 臨也は、誰の手も取らなかった。臨也にとって恋人はいつまでもひとりきり。これから先も、誰かと一緒に夜を過ごし、朝を迎える事はないだろう。そうして、喧騒と静寂がいりまじった無口な街を、臨也は好きなように歩き、好きな時に眠る。と夜を明かしたベッドで、ひとりきりで、変わらぬ微笑を夢みながら。 つきまとう幻想をふり払って、臨也はパソコンに向き直った。集中している間は、を忘れていられるからと、臨也はそれまでよりもずっと仕事にのめり込むようになっていた。いくつかの用件を手早く処理して、臨也は机の上に出しておいた携帯電話の時計に目をやる。昼をすこし過ぎたころ。時間だ。 マグカップに残っていたコーヒーを飲みほして、いつものコートをはおって外に出る。春のはじまりの、あたたかく、どこか落ち着かない陽気がからだを包み込んだ。コートのポケットに両手をつっこんで、向かうは近くの公園。 はもう、いないけれど。 が遺した女の子が、そこで、俺を待っているから。 「臨也くん!」 かけよる女の子を抱きしめて、そのまま持ち上げる。女の子の無邪気な笑い声、今日の天気のようにあたたかい笑顔。臨也は抱きあげたまま女の子のやわらかな頬に顔を寄せる。くすぐったそうに身をよじる女の子、あまやかな花の香り。腕の中の少女は、臨也のコートをちいさなてのひらできつく握りしめて笑う。臨也もそれに、なんのかけ引きも含みもない微笑を返す。 「今日は幼稚園でなにをしてきたの」 抱きあげたちいさなからだを揺すりながら尋ねる。女の子は、んっとねえ、と舌足らずな言葉で間をつないで、それからすぐに必死になって言葉をつむぐ。 「今日はねえ、折り紙してね、あとね、みんなでおえかきした!」 「楽しかった?」 「うん!」 よかったね、と笑いかけると、臨也くんは? といつもの切り返し。臨也は間をおかずに、額をくっつけて答える。 「お仕事してたよ」 おしごと、とおうむ返しにつぶやく少女に、お仕事、と臨也も同じ言葉を繰り返した。たいへんだねえ、という、すこしだけ間延びした言葉。そうだねえ、と同じような響きで返す。女の子はぱっと顔をあげて、臨也の顔を真正面に見つめて真剣な面持ちで言う。そのまるい瞳にかすかに残る面影。その言葉すら。 「ちゃんとおやすみしないと、だめだよー?」 胸が、苦しい。 いつかにに言われた言葉だった。ちゃんと休んで下さいね、心配を隠したほほ笑み、甘える様な自分の返事も、もう、ずっと前の事なのに。とっさに返事も出来ない。いぶかるように名前を呼ばれて、どうにかして、そうだね、と返す。とたんに浮かぶのは大人ぶった笑顔、かわいらしいフリルがついた、ピンク色のワンピース。やさしく地面に降ろすと、手をつないで、と無言でねだるその愛らしさ。離さないようにきつく握りしめる。臨也くん、いたいよー、と笑うのに甘えて。 夕暮れの街、愛した人の遺したこども、やわらかなてのひら、甘い微笑。 求めていた幸せの、かけらでもいい。 触れて、いたかった。 「あ、ママ!」 ぱたりと手は、離されて。 かけて行くちいさな背中、それを待つ母親の優しい横顔、決して踏み入れる事のできない境界。甘い抱擁、嬉しそうな笑い声、母親が顔をあげてこちらを見る。いつもすみません、とすまなさそうに笑んで少し頭を下げる、ああ、――もう随分と薄れたけれど、その微笑は確かに、によく似て。 臨也さんにお別れして、と母親がうながす。少女のかん高いさよならのあいさつを受けた臨也は、いつものようにしゃがみこんで、母親と手をつないだ少女の頭をやさしく撫でる。またね! と元気よく手をふる女の子に、同じ言葉を返して手をふって。ありがとうございました、と頭を下げる母親には、少しだけ演技の入った微笑を送る。夕暮れの道を手をつないで帰るふたりの姿。臨也はひとり、来た道を戻る。出た時には感じなかった寒さが身を刺した。肩をすくめ、身を縮めながらひとりきりで歩く。 あの母親は、のこども。少女はさらに、その娘の子だ。 父親は、臨也ではない。いや、臨也ではなかった、と言うべきだろうか。 池袋を騒がせた一連の事件が起こってから、ゆうに80年の時が、流れていた。 あの時に関係をもった人間はすべて消え、残ったのはデュラハンであるセルティ・ストゥルルソンと、“新宿の情報屋”である折原臨也、ふたりきりだった。そのセルティにしても、恋人であり、のちに事実上の伴侶となった新羅がこの世を去った時点で、池袋から姿を消した。立ちすくむのは臨也と、どれだけ時を経ようとも本質的にはなにも変わらない、騒然とした街だけだ。 窓ガラスに映り込んだ自分の姿。それを見て、臨也はすこしだけ、嗤った。 20を過ぎた頃から成長を止めた臨也のからだは、80年という、けっして短くはない時が経とうとも昔のまま、褒めそやされた外見のままだ。時間の流れから切り離された自分の運命を、嘆いた事もある。だが、すべて昔の話だ。臨也はいまでも21歳を自称し続け、いつまでも覚めない夢の中で生き続ける。不老不死という、おとぎ話のような設定の中で、ひとり。 それが、を遠ざけた理由だった。 うつくしく成長し、ゆるやかに年を取る。それを目の当たりにした時、はじめて、時間の影響を受けず、なにも変わらない自分の身を呪わしいと思った。いまは気付かなくとも、いつか、――これから先をふたりで生きると決めてしまえば、いつかは臨也について、知らなくてもいい事を知るだろう。知らない間だけ、解らない間だけ、気付かれない間だけ。臨也はふたりの期限をそう定めたけれど、実際の終わりはそれよりもずっと早くおとずれた。傍にいる幸せよりも、気付かれた時に人でないもののように見られるのではないか、という恐怖が上回った時、臨也はの手を離した。 その後のについて、臨也が知ったのは、別れてから50年ほどの時が経過してからだ。情報屋としてふがいない事だが、どうしても、のその後について情報を仕入れる事が出来なかった。ふっきるようにして秘密を暴こうと決めた時、臨也のこころは、かすかに揺れていた。もしかしたら、臨也と同じように、もまた臨也を忘れられずにひとりでいるのではないか。そうした期待と、不安が少しずつ折り重なってできた、ざわめきだった。 残念ながらというべきか、幸いにもというべきか。は結婚していた。子を産み、母となり、そして愛らしい孫と生きていた。その時に臨也の胸をよぎったのは、苦しみや虚しさではなかった。かつて狂おしいほどに恋をした女の子は、幸せに生きていた。胸に満ちるのは安堵と幸福で、それ以外、なにもなかった。臨也はその日はじめて、他人の幸せを想い、涙を流した。 真実を話していたら、というもしもは、その時に捨てた。 代わりに誓いをひとつだけ立てる。もしも女の子がうまれたら、会いに行こう。 たった一度だけでいい。 臨也が、そして、ふたりが夢見たはかない未来が、どんなかたちであれこの世にあらわれたら。 それはひとつの自虐だったのかもしれない。とおく隔たってしまった、ふたりの運命を確認する作業。だが、臨也は幸せだった。臨也にしてみれば、またたきにも満たぬほど短い時間であろうと、ちいさな手を取るその時、臨也は――。 そして今日もまた、臨也は永遠の恋人の夢を見ながら目を覚ます。気ままに人の波を泳ぎ切り、わずらわしくなったらぱたりと姿を消し、折原臨也の名前を知るものがいなくなった時にまた、臨也は思い出したように情報屋として世を駆ける。駆けて、泳いで、嗤って、すこしだけ、泣いて。と眠ったベッドで、ひとりのからだを丸めるようにして眠りに落ちる。いつか永遠に眠りにつく日を、のもとへ旅立てる事を祈りながら。 臨也の夢の中では、いつだってあの時のまま、笑っている。 |