あたたかいもの、やわらかいもの、やさしいもの、うつくしいもの。 遠巻きにして見ている分には憧れは憧れのままで、憧れであるぶんにはそれ以上の事など望みはしない。だが、そのあたたかさを一度でも知ってしまえば、きっとそんな事、言っていられない。どうしたって手にいれたくなるだろう、欲しがらずには、望まずにはいられなくなる。手を伸ばす権利など、自分にはないと解っていても。 てのひらを開いたり握り締めたり、太陽にかざしたりしながら、自分にはとても似つかわしくない、しあわせな現状について想いを巡らせる。この手には勿体ないほどのしあわせを得てしまった、と。 こうして見ている分には何の変哲もないてのひらで、それどころか男のくせにやけに細長い指が気にかかるぐらいだ。だが、一度スイッチを切り替えた途端、俺のてのひらはすべてをめちゃくちゃにしてしまう。自分では力を入れていないつもりの、握りしめたこの右手は、しかしきっと化け物のような力を秘めているのだろう。 解った時から遠ざけてきたつもりで、だけれどそう言いながらもそのあたたかさが心地よくて、いつしか手放せないものが増えてしまった。欲しいと願う事すら叶わなかったものに、もしかしたら手が届くんじゃないか、なんてばかみたいな期待すら抱いている。 こんな力を持った化け物の自分を、心配してくれる人たちが周りには多すぎる。弟、上司、そして友人。昔の自分が想像だにしていなかった幸福を得た、それがこんなにも恐ろしい。 教えてやりたい。いっそ大声で叫んでまわりたい。 池袋の怪物にも、……怪物だからこそ、恐れるものがあるのだと。 もうこれ以上は望んではいけない。今でもじゅうぶん、俺のてのひらには零れ落ちてしまいそうなほどたくさんの幸せがつまっている。壊さないように、なくさないように、……忘れて、しまわないように。きつくてのひらを握りしめて、自分に何度も言い聞かせる。忘れるな、平和島静雄。 ――自分が、化け物であるという事を。 さんはトムさんの知り合いの女性で、俺がトムさんの下で働くようになって2,3カ月が経った頃、俺はその人を知った。何でも高校の時の同級生らしく、今は大学院だか研究所だかで、俺には到底理解できないような研究をしているそうだ。俺みたいなのとこんなのが知り合いなんておかしいべ? と、トムさんはさんの事を俺に紹介した時にそう言っておおらかに笑ったけれど、そんな事はない、と俺は思った。さんと少ししゃべるようになって解った事だが、さんはトムさんに負けず劣らず、ひとが良かった。俺みたいなやつでも何も感じずに接し、しばしば池袋を訪れては俺に話しかけてくるさんに、俺のほうが驚いたぐらいだ。 いちど、差し入れ、といって事務所までパステルのプリンを持ってきてくれたさんに、思わず聞いた事がある。俺の事、怖いとか、気持ち悪いとか思わないんですか。今にして思えば、なんて事を聞いたのだろうと思う。しかしさんは、自分が持ってきたプリンをひとつ食べながら、ほんとうにわからない、と言ったように首を少し傾げた。それからさんは、すくっていたプリンをひとくち口にしてから、どうして、と尋ねた。どうしてって、と、質問に質問で返され、さらにその内容が予想外で戸惑う俺をよそに、さんは少し考えた後で言葉を続けた。 「私は、きみの事を、かわいいやつだとしか思った事はないよ」 かわいいなんて言われて気を良くする男がいるとは思えないから黙ってたけどね、とさんは少し笑って、空になった容器にプラスチックのスプーンをからんと投げ入れた。俺は何を言えばいいのか解らず、そんな事ないです、と言うだけで精いっぱいだった。かわいいなんて言われて嬉しいわけじゃない、でも、さんにそう言ってもらえた事は、どうしてかすごく嬉しかった。 その後でトムさんと会った俺は、思わずさんの事を話題に上らせていた。さんってふしぎなひとですね、そう言うと、お前もそう思うべ? とトムさんは嬉しそうに笑った。俺にはなぜ彼がそんなにも嬉しそうに笑うのか解らなかったけれど、トムさんが嬉しそうなのは俺にとっても嬉しい事だ。その笑顔につられるようにして、俺はさんとの会話をぽつぽつとトムさんに話した。トムさんはふんふんと相槌を打ちながらその話を聞き、かわいいやつ、のくだりにさしかかったところで耐えきれずに噴出していた。なんていうか気になってたけど、まさかかわいいやつだとは! そう言って煙草の煙を吐き出したトムさんは、今日一番の笑顔で俺をまっすぐ見て、そして言った。 「やっぱ、お前とあいつ、会わせてよかったわ」 さんとの会話の時とおなじで、俺にはその言葉にもとっさに返事をする事が出来ず、何秒か、もしくは何分か経ってからようやく、ありがとうございます、と口にしたのだった。トムさんは、あいつ、いいやつだべ? と言いながら俺の肩をたたく。はい、すげえいいひとです。俺はそう言って、トムさんの顔を見てへたくそな笑顔を作る。それを見たトムさんは、今度あいつも誘って3人で飲みにでも行くか、と笑った。 俺は最初、ふたりが付き合っているものとばかり思っていた。間違いに気付いたのは知り合ってからだいぶ経った頃で、その時はふたりに、ずっと勘違いしてたのかと笑われた。それでも、並んで歩き、笑いながらトムさんの肩をたたくさんと、それを穏やかに受け止めるトムさんの姿はとても自然で、そんなふたりを眺めながら、ふたりが付き合ってしまえばいいのに、と思っている自分がいる事に気付いた。ふたりが付き合えば、俺はこの関係をずっとなくさずにいられるかもしれない、といういやらしい打算か、それとも単純に好きな人と好きな人に繋がっていてほしい、というあてもない願いか。どちらから生まれた思いなのか、俺にも解らなかったけれど、ひとつだけはっきりしている事があった。 俺は、決して当事者になりたくないのだ。 歩みが止まった俺に気づいてさんが振り返り、どうかしたのかとトムさんが尋ねる。すいません、何でもないです、そう言いながら俺は少しだけ、輪の外に自ら外れるように一歩だけ足を引く。ふたりが並んでいるところまでは想像が出来ても、そこに俺が入っている場面だけはどうしても考えられなかった。……いつだって、そうだ。 セルティと新羅にしても、ふたりの事をいいやつだと思ってるし、友人だと思ってもいる。それでも、どうしてかひとつ、足を引かなければいけない気がしている。ふたりを見ているだけの自分でありたい、それは家族にしたって同じだ。幽や両親の事はもちろん好きだけれど、それでも家に帰ってはいけないという想いがいつからか生まれた。見ているだけだったら、遠巻きにしているだけだったら、……触れて、壊す事はないから。 忘れるなよ、平和島静雄。 お前は化け物なんだ。いくら周りに恵まれていたところでお前はお前、いつまでも化け物である事に変わりはない。言い聞かせなくとも、もうじゅうぶん染みついた声が頭の中で響き渡っては消えていく。その声を聞きながら静雄は思うのだ。忘れた事など一度もない、忘れるつもりなどない、と。 だって俺は、きっと、化け物であるという事を忘れたくないのだ。そう思えば心は少しでも慰められる、ひとりである事を正当化する公然とした理由もできる、だから。 誰もが打ち消し、誰もが忘れても俺だけは自分に言い聞かせる。それだけが俺の持つ唯一の理由であるかのように、ただ。 俺は、化け物なのだ。 だから、お前には、触れられない。 足元で猫がなおんと鳴く。どうして抱きあげてくれないのかと言わんばかりにつぶらな瞳が見上げてくるけれど、どうしたってそんな事、出来るわけがない。腹が減っているのか、しつこくすり寄る猫の、振り払えない温度だけがうすい皮膚を通して伝わってくる。心のやわらかい部分をじわじわと削るような微熱、ともすれば、……泣きたくなるような、あたたかさ。 池袋の路地裏に立ち尽くしては、猫が離れる事を待っている。こんな怪物の姿など、誰も想像した事はないだろう。そうして、払いのける事も抱き上げる事も出来ないで、何分ぐらい経ったのだろう。ズボンの足元に顔を寄せていた猫がぴくりと顔をあげるのと時を同じくして、何をしているんだい、と呆れを含んだ声がかけられた。 「、さん」 「猫にからまれて身動きがとれないとは、今度からきみと戦うやつは猫を連れてくるべきだね」 「勘弁して下さいよ……」 「冗談だよ」 さんはそういって笑ったあと、猫に向かって、「ほらほらあっちへ行きなさい、にゃあじゃない、鳴いたところでどうにもならんぞ」などと言いながらそれを追い払った。猫は一度うらめしそうに振り返ったが、それきり顔を前に向けて踊るように消えていく。先ほどまでかすめていた温もりが少しだけ残ってすぐに消える、その冷たさにぞっとした。 ああ。 誰にも触れられない事を孤独と呼ぶんじゃない。 誰かに一度でも触れ、その熱の記憶を持ちながら、だけれどもう二度と触れる事はかなわない。 それこそが、孤独。 「今日はあたたかいから、猫も活発なのかな」 「……そう、ですね」 さんは、てのひらで眼の上にひさしを作って俺にそう尋ねた。だが、いまだぬくもりにとらわれたままの俺は言葉をうまく返せない。不自然な間でどうにかして適当な相槌を打つけれど、さんは俺の顔が暗くなったのを見て取ったのか、そうだね、と一度同じ言葉を返してそれきり口を閉ざしてしまった。今までに一度も感じた事のない、居心地の悪い沈黙が流れる。打開する策を探しては切り替えるための言葉を必死で漁るけれど、簡単には見つからない。いたずらに時間ばかりが流れ、眼の前のアスファルトに陽が照っては雲が影を作って、それを繰り返す。さんはひさしにしていた手を降ろし、アスファルトに向けていた顔を俺に向ける。俺を見上げる顔は無表情で、それはさんにとってはいつもの事なのだけれど、どうしてか今だけは、それがたまらなかった。 「猫はきらい?」 「や、そういうわけじゃないんですけど、」 「ですけど?」 「……こわしそう、で」 ぽつりと言った言葉は、言ったとたんにかたちを成して胸の奥深くに沈んでいく。こわしてしまいそうで、こわい。それは、猫や動物や人間に限った話じゃない。俺がいる事で何かが壊れてしまう、それが怖いのだ。完成された構図の中に俺が入り込む事で、それまでが壊れて台無しになってしまう、それが。それならば見ているだけでいい、見ているだけならば永遠に綺麗なままで、そこには痛みも失望もない。 だけれど、今みたいに触れられてしまうと、たちまち眠らせて忘れたはずの願いがよみがえってくる。ぬくもりは鍵になって、俺がずっと沈め、だけれどずっと欲しがっていたものを眼の前にさらしてしまう。まるで届くのではないかと勘違いしてしまいそうな場所に。 手を伸ばして、なくさないようにと強く握りしめる事など、俺には出来ないのに。 「仕事はもう終わり?」 「え、はい、今日はもうあがりです」 「そう。じゃあ、予定がないんだったら、ちょっとついておいで」 いいものを見せてあげる。 そう言うと、さんは背を向けてさっさと歩き始める。俺は戸惑いながらも、必死でそのあとを追った。どこに行くんですか、とは聞かなかった。聞いたところでさんはきっと教えてくれないだろう。混乱する俺をよそに、さんはもくもくと前を歩いた。俺たちの間に会話はなく、聞こえてくるのは他人の他愛もないうるさい声ばかりだったけれど、先ほどまでとは違い沈黙は痛くはなかった。意味のない会話や、核心に触れない沈黙ならば何もつらくはない。それが無意識のうちに解っているからこそ、俺たちはどうでもいい事ばかりをしゃべったり、意識的に会話を反らす事で自らを守ろうとするのだろう。俺が、暴力を誇示する事で誰もを遠ざけるように、人もまた、言葉という力でもって。 どうか触れるな、どうか何も言うな。……そうしている間ならば、笑えるから、と。 そういえば俺は、さんについて、何も知らない。 池袋の駅前から歩いて10分ぐらいした頃だろうか、さんはひとつのマンションの前でぴたりと立ち止まって振り返った。 「こんな事になるんなら、もう少し綺麗にしておけばよかったな」 「え、ここ、さんち、ですか」 「うん」 言ってなかったかな、研究所が池袋なんだ。そう言ってさんはエントランスに入り、エレベーターのあるホールを通り過ぎてかんかんかんと階段を登っていく。エレベーター、嫌いなんだよ。そうつぶやいたその口調は、子どもが食べ物を好き嫌いを口にするかのようで、俺はあまりの展開に驚きながらも少しだけ笑ったのだった。 どうぞと招き入れられた部屋は、さんの性格からある程度予想出来ていた通りに整然と片付いていて、俺は思わず、「これ以上どこを綺麗にするんですか」と口にしていた。さんは笑って口を開く。部屋じゃなくてね、と言いながらさんは台所でやかんに水をいれて火にかけた。何か尋ねるよりも早く、うしろのほうでにゃあと甘えた声が聞こえて、俺は思わず身を固くする。その子の事だよ、とさんは台所のカウンターごしに俺にそう告げて笑う。振り返ると、まっしろな猫が泰然と棚の上から俺を見下ろしていた。 「さん、猫飼ってたんですか」 「どうもきみには話したつもりになってる事が多いみたいだ」 「はじめて知りましたよ、そんなの……」 「みたいだね」 カップに紅茶を注ぎながら、さんはのんびりと答える。みたいだね、どころの話じゃない。だが、緊張する俺をよそに、まっしろな猫はまったく興味がないといったように棚の上に座り込み、しっぽをぱたぱたと揺らしていた。ごきげんのようだ、と紅茶を運んできたさんがそれを見て愉しそうに言う。こういう事を言うと、猫が好きなひとに怒られるんだけれど、と前置きを述べながらさんは俺の真正面に座って言葉を続ける。 「猫はあざといんだよ」 「あざとい……ですか?」 「まあ、賢いと言ってもいいんだけれど、私にはどうもあざとく見える」 「はあ」 「だから、やさしくしてくれるひとを見抜いてはすり寄っていくんだよ」 「……そんな」 そんな、わけがない。 「生き残るために、彼らは持てる力を尽くして保護者の庇護欲をそそるしかない。やさしい人間を見抜かないと生きていけないんだよ」 「……そう、でしょうか」 「これも言ってなかったみたいだけど、」 「私は、きみほどやさしい人間に出会った事がない」 でも、行き過ぎたやさしさはどうも本人の幸せには結びつかないようだ。さんは独り言のように呟いて、椅子から立ち上がり棚に近寄っていく。まっしろな猫はさんの手に嬉しそうに顔をすりつけたかと思うと、気まぐれに離れてはかろやかに床に着地する。待ちなさい、と言いながらさんは優雅な手つきで猫をすくいあげ、俺を眼を合わせると、「ほら」とその華奢な両腕ごとその猫を差しだした。 「はい」 「はい、って、え、ちょっと、さん」 「早く受け取ってくれるとありがたいなあ」 「や、無理です、……解ってるでしょう」 「あのな。携帯電話とそんなに変わらない」 「でも、」 「いいから、ほら、手を離すから出しなさい」 「さん!」 猫が不安そうにさんを見上げてなあと鳴く。こわくないよ、と言いながらさんはそっと手を離す。それは、猫に向けての言葉だったのか、それとも俺に向けての言葉だったのかは解らない。たださんの手が離されるのを見て、とっさに腕でそのしろいかたまりを抱きとめる。触ってはいけないなど、……あたたかさに、触れてはいけないなど、考える暇もなかった。 「腰から下をすくいあげて丸めるように持つんだよ」 なんだ、うまいじゃないか。そう言って俺を見て笑ったさんは、ただただうつくしく、俺は黙って下唇をかみしめる事しか出来なかった。 ……そうでもしないと、本気で、泣きそうだったのだ。 ずっと、ずっと触れられないと思っていた。欲しがってはいけないと、得られるわけがないのだからと否定していたものを、さんはなんでもない事のようにたやすく俺に差し出してしまう。きっとこのひとは、いま自分がした事で、どれほど俺のこころが揺さぶられたかなど解ってもいないだろう。さんは、「うすうすそうではないかと思っていたけど、やはりきみと猫という取り合わせはなかなかしっくりくるものだね」などとのんきに言っては笑っている。 明日、この奇跡が眼の前から消え失せても構わない。そう思った。 眼の前から消え失せたところで、俺の中では、永遠に消え去らないだろうから。 「さん、この猫、なんて名前なんですか」 「ネコ」 「はい、猫です」 「いや、だから、ネコ。名前、ネコ。解りやすくてシンプル、オッカムの剃刀という法則があってだな、」 「……さん」 「……わかった、解ったからそんな憐れむような眼で見るな。なんだったら変えてもいい、そうだ、君がつける?」 いい名前だったら君の案を採用しよう。そういってさんは猫のあごをなでながら微笑んだ。君の好きなようにしたらいいよ、とあっけらかんと笑った後で、ネコよりいい名前じゃなければぶん殴るからな、と右手を軽く握って俺の肩に押し当てるさんは、俺の眼には美しすぎて、俺はともすればこぼれそうなものを必死で飲み込んだ。そして一拍置いてから、どうにか必死で憎まれ口を叩いたのだった。 「……それ以上ひどいのなんか、思いつきたくても出来ませんよ」 「言ったな?」 では次に会うまでの宿題。そう言ってさんは小指を突き出す。指切りをしよう、といたずらっぽく笑うこの人を、俺は心底いとおしいと思った。冬の澄んだ空から差し込む、ただ純粋で綺麗なひかりにも似た美しさで、この人は俺をとらえてしまった。 欲しくないと思っていた。いらないと思っていた。欲しがる事は許されない、望むべくものではないと、ずっと。 世界と関わる事など許されないと思っていた。俺が踏みこむ事が出来る場所など、この世界にはどこにもないと思っていた。 だけれどこの人はいま俺に差し出したのだ。この人は、この人の世界の中に俺がつけた名前が存在する事を、あっけないほどの簡単さで許した。そこにいてもいいよ、と言われたようだった。早く入っておいでと、そう言われたような気がした。 からめた小指から伝わる温度。さんは変わらずに微笑んでいる。 その笑顔は、目前にあっては焼かれてしまうような、それでも構わないと言えるような、美しさだった。 |