失恋した。 告白をして断られたわけじゃない。嫌いだと言われたわけでもない。むしろ、そっちのほうがどれだけよかった事だろう。どれだけ簡単で、どれだけ楽にこの気持ちに区切りをつけられた事だろう。 好きな人が他の女性と付き合い始めた。それだけの事だ。それだけで、私と彼の関係は何も変わらない。私はこれから、彼が幸せそうに恋人の話をするのを何度聞けばいいんだろう。遊びに誘って、恋人と約束があるからといって断られるのを、私はこれから、何度、経験すればいいんだろう。当たり前だけれど、当たり散らす権利なんかない。それどころか笑って、そっか、いいよいいよ、なんて、ちっとも思ってやしない事を完璧な笑顔で言い続けなければいけないのだ。幸せそうな彼をいつもみたいにからかったりしなければならない。平気な顔で。 ――どんなにつらくても、そうやって笑ってなければ、傍にもいられなくなる。 静雄に、恋人が出来た。 いつから好きだったのか、とか、どこが好きだったのか、とか。そんな事、今まで考えた事もない。気付いたら好きだった。ばかみたいに好きで、好きで好きでどうしようもなかった。 でも、恋人になりたいとか、特別になりたいとか、そう言う事を思ってたわけじゃない。ただ今がずっと続けばいいと、そればかりを思っていた。静雄が私の事を好きになる日が来なくても、私一人が静雄の中で特別な女の子であり続けたかった。彼と会話できるただひとりの女、彼が寂しい夜に電話ができるただひとりの女でいたくて、そんな現状に私は満足をしていた。……していた、はずだった。 静雄に恋人が出来た、その話を聞いた時に、私は悲しいとか苦しいとか嫌だとか、そう言う事を思うよりも先に感じたのだ。胸の奥から黒い塊が溢れだすのを。失恋した、悲しい、どうして――、そんなかわいいものじゃない。もっと醜いものだった。私が、傍に入れるだけで幸せ、なんていうきれいごとでしかない言葉で無理やりに押し込んでいたものが、その瞬間に姿を現して、私の耳元でそっと囁いた。 ――ほうら、お前はどこかで期待をしてたんだよ。 傍にいられるだけで幸せで、言いかえれば私以外の人間が傍にいることは許せなくて、 静雄の毎日が幸福に満ちていればそれだけで十分で、でもその幸福の理由が私の共有できない場所にあれば悔しくて、 これから先もずっとそうやってやっていきたくて、これから先、私と静雄、それ以外のものが介入するだなんて絶対に許したくなかった。 どんなかたちでもいいからずっと傍に、だなんて嘘だ。大嘘だ。私が恋人になれないんだったら、他の誰も恋人にしないで欲しかった。静雄の幸せを、そして静雄が誰かを愛し誰かに愛されることを祈りながら、結局その相手が自分じゃない事でこんなにも私は嫉妬に狂ってる。 でも、こんな事、言えない。 次に会ったら。 次に、静雄に会ったら。ともすれば彼女と一緒かもしれない静雄に会ったら。 私は笑って言うのだ。おめでとう、よかったね、幸せになってね。 思ってもいない事を平気な顔で言えるのが大人なのだとしたら、そして自分の気持ちをみっともなく隠す事でしか矜持を保てないのが大人なのだとしたら、私は大人になどなりたくなかった。 ――こんな気持ち自体、知りたくなど、なかった。 私はこれから、ぶつけようのない気持ちだけを抱えて、いつかそれが静かに消えるのを待つ。それでもその間、私は彼の隣にいる事を選ぶだろう。馬鹿みたいに笑って赤面した静雄から彼女の話を聞くだろう、そうやってわざわざ自分から傷を抉っては、かわいそうな自分のために泣くだろうし、もしもふたりが喧嘩なんかをしたら、私は話を聞いて静雄をなだめては仲直りしてきなよとその背を押すだろう。馬鹿だ、愚かだ、そんなことしたって何にもならない。それでも私はきっと、何度やり直せるとしてもその道を選び続けるだろう。何も痛くないふりで、……笑って。 そこにあるのはただの愛だと思いたい、なんの混じりもない優しさだと思いたい。でも、違う。それは打算だ。いい子にしていれば、いいやつでいたら、いつか恋人と別れた静雄は私の方を見てくれるんじゃないか。そういう期待だ。いつか彼女と別れる日を待ちながら私は彼の幸せを願うのだ。ただ、訪れるかも解らない未来のためにだけ、優しいふりをするのだ。 愛とは、誰かの事を好きになるという事は、こんなにも醜い。 遠くから幸せなんか願えない。喜べない。奪ってしまえたら。……奪う勇気もないくせに。 特別になりたかった。女友達としての一番じゃない、全ての女の中で一番になりたかった。 そんな私の気持ちを、少女じみた馬鹿げた行為を、その始まりも過程も、何もかもを知っていたのは、ただひとりだけだ。 この恋の終わりを知らせたのも、その男だった。 ひゅうっと喉を息が通り抜けるのを感じた。一瞬で、一言で、頭が真っ白になる。驚いているのに、反応らしい反応も出来ないまま、ただ息の吸い方だけを忘れている。街の喧騒がミュートになったみたいに全て消えて、すぐにまた音声を取り戻す。臨也はその間も楽しそうに笑っているだけだった。うざったい動作、うざったい口調、それら全てで主張する。 「あの“化け物”のシズちゃんに、なんと恋人が出来たらしくってねえ」 胸が嵐のようにざわついたのは一瞬で、その後は自分でも驚くほど心が凪いだのを確かに感じた。何もなかった、……何も。その間も、聞きたくなどないのに、臨也は芝居の道化役者のようになめらかに言葉を続ける。 「未だに信じられないんだけど、どうも本当の事らしい」 「……誰、と」 そんな事を聞いたところで意味などない。相手が誰だとか、どうしてだとか。もう、そんな事は終わってしまった事だ。どうしようもできない、どうだってかまわない、それなのに聞くのは私の方がいい女だからと思いたいからだろうか? それとも、そんな素敵な人なら仕方ないと諦めるために? ……もう、どうだっていいはずだろう。 語り続ける臨也の声すら遠い。解るのは、記憶の中と何も変わらない笑い顔だけで、その愉悦に満ちた表情から、私はこれが夢でない事を知る。 夢じゃない、これが現実で、きっと、……私が、どこかでずっと待っていた、夢の終わりなのだ。 「ずっと前に、それこそ高校の時から言ってた事だろ? シズちゃんは化け物なんだ、みたいな普通の人間と恋はしないってね」 「……あんたは静雄のことを化け物って言うけど、」 そこで言葉を切ってひとつ息を吸い込む。ああ。唇の端が持ち上がる、きっと、私は今、臨也と同じ顔をしている。 「仮にあいつが化け物だったとして、私たちがそうじゃないなんてどうして言い切れるの?」 好きな人間にこっちを見て欲しくって、相手の事を呪ってでも傷つけてでも自分しか見れないような環境において、すべて思い通りにしたい。 私と静雄以外誰もいない場所につれていって私が愛を教えよう、私以外に頼るもののない場所に連れて私の存在だけを刻みつけよう。 もしも神に、他のすべてを投げうっても静雄が欲しいかと問われたら、私はきっと一も二もなく頷いている。 ――怪物になり下がっても構わない、心から欲する相手が手に入るのならば、何を失っても構わない。 「……でも、あんたには、一生かけたってこんな気持ち、解るわけない」 人を愛せないあんたには、狂ってまで誰かを欲する気持ちなんか、一生解らない。吐き捨てるようにそう言うと、臨也は愉しそうに笑ってコンクリートの壁にもたれかかった。そうだね、その通りだ。そう言って大げさな身振りでこちらを振り返る悪人の笑み。 「がシズちゃんを一生理解できなくて、シズちゃんもまたの気持ちに一生気付かないように、ね」 現実によく似た残酷さでじわりじわりと追い詰める。高笑いで人を貶める眼の前の男を殴りつけてやりたかった、そして、それと同じぐらい、どうしてかこの男に縋りついてしまいたかった。私の幼かった衝動も醜さも、全て真横で見続けてきたこの男に、どこにも葬る先がないこの気持ちの墓場になってほしかった。出来るわけが、ないけれど。 死んでしまえ、そう呟いて私は溢れ出そうな涙をこらえた。死んでしまえ、私も、この気持ちも、あんたも、この世も、全て。 呪いの様な強さで睨みつけた先の臨也はまだ笑っている。それでも街の雑踏を背負ったその笑顔は先ほどまでのよりも随分と柔らかくて、私は結局、同じ言葉を繰り返しながらこの男の前で雨の様な涙をひとつ零したのだった。 ほんとうの怪物はだれ? |