こどもみたいな手をしている。 審神者を名乗る女性と対面したとき、清光がまずはじめに思ったのはそれだった。清光からすれば切りすぎに見える爪には何も色が乗せられておらず、また装飾品のひとつもない。刀剣でしかない自分のほうが外見に気を使っているのもおかしな話だ、と、ぼんやりと思った。 「はじめまして、加州清光。これからどうぞ、よろしくお願いします。」 しずかな物腰と、気品に満ちた口調。おだやかな微笑みと真っ白な着物。たったそれだけ、けれど物事を判じるには十分だった。自分とは違う、上等な生まれと育ちの人間だ。だから必要以上にごてごてと飾り付ける必要もない。清光はほんの一瞬だけ下唇を噛み、すぐにそれを隠した。 「川の下の子です。」 あてつけのように口にしたその言葉に、審神者は何も言わなかった。貴族のような審神者さま、だ。清光は内心そう呟いた。 当然のことながら、“高貴なる審神者”さまは、戦いについては何一つ知らないようだった。陣営に加わってからというもの、誰かに教えを乞うては胸元に忍ばせた手帳に書き付けていく姿を何度か目にした。清光にしてみればどうでもいいような情報までせっせと記している審神者を見て、必死だなと思うと同時に、ため息をつきたいような気分になる。かといってもっと血気盛んな審神者がよかったのかと言えば、それもそれで、と思うのだから勝手だ。本陣の縁側で開かれている勉強会を尻目に、清光は与えられた自室へ向かうべく足を踏み出した。 「……過保護な審神者さまのおかげで、爪の手入れに費やす時間がたっぷりあって嬉しいね。」 周囲に誰もいないことを確認したうえで、そう零す。 参陣してから数か月。清光が部隊に呼ばれたのは、片手で数えられるほどしかない。何を言われたわけでもされたわけでもないが、清光は理由に心当たりがあった。いまだって審神者のそばにいるのが石切丸や今剣であることからも明らかだ。由緒正しく清廉なものばかりを集めた日向から、にぎやかな声が聞こえてくる。 「あるじさまはなんにもしらないんですねえ」 今剣のすこしたどたどしい言葉は彼が無邪気だから見過ごされる。いくら事実といえども、清光が言えば波風を立てかねない。なんにもしらない審神者は、苦く笑うこともなくただただ言葉を受け止めて、穏やかに言葉を返した。 「ですからいま、こうしてあなたや石切丸に教えてもらっているのですよ。」 「ふふん。今剣のほうが、せんぱいです。」 「さて、では復習といこうか。先輩が先に答えるかい? ……それとも清光、きみかな?」 名前を呼ばれてとっさに振り返ると、石切丸の食えない笑みが眼に入った。聞き耳を立てていた罰か何かか、清光は解りやすく眉をしかめた。「あっ、きよみつ!」という今剣のいっそ憎たらしいほどに裏のない声と、審神者のガラス玉のような瞳が清光を追いかける。「はいはーい、清光ですよー」と投げやりに言葉を返しながら、清光は諦めて来たばかりの道を戻った。 「復習もなーにも。俺、なんにも習ってないんだけど?」 「なら、やっぱり今剣がせんぱいです!」 「わー、だいせんぱーい」 「ふふん。もっと言ってもいいんですよお」 なんてことのない会話の合間、ちらと横目で審神者の顔を窺った。相変わらずの涼しい表情で、いつもと同じ、首から足元まですっかり隠れるような真っ白な服を着て佇んでいる。この人が審神者だと言って一体どれほどの人間が信じることだろう。それこそ石切丸の言葉ではないが、そういった穢れからもっとも遠い場所にいるような人だろうに。 「いま、それぞれのかたなのちがいについてお勉強してたんです」 どうだ、と言わんばかりに胸を張る短刀の頭を、髪が乱れない程度に撫でてやる。普通ならば、今さら基本中の基本をさらっていることを知られたら決まりが悪くなるだろうに、目の前の審神者はそういったそぶりも見せなかった。とうめいな瞳はまっすぐに清光を見つめている。耐えきれず、清光は投げつけるように言葉を吐き出した。 「一から勉強するのも大変でしょ。そういうのに長けたやつに任せちゃってもいーんじゃない?」 「そうですね。そちらのほうが、あなたたちにとっても戦いやすいという事は、承知しています。」 「そうそ。審神者さまは御身大事に、戦うのは俺たちの役目ってね。」 「けれど、それはわたくしが何もしなくていいという理由にはなりません。」 わたくしは、あなたたちの誰にも欠けてほしくありません。そのために出来ることはしておきたいのです。 その言葉を受けて、清光は誰にも見えないように隠したこぶしを固く握りしめた。吐き気がする。誰も死なない戦などあるものか、誰も犠牲にならない勝利など存在するものか。戦の最中に、審神者にできることがあるとでも思っているのだろうか。戦うのは自分たちで、この人はただ、高みでそれを見ているだけだ。高潔な理想とともに。 ――ばかばかしい。 「じゃあ、ずるーい戦い方も教えましょうか? 俺、川の下の子だからさ。意外にそういうのも詳しいよ?」 投げやりになってそう呟いた。そばにたたずむ石切丸は、ただじっと審神者と清光のやり取りを見つめている。その眼が、審神者を判じようとしているように見えるのは、清光の勝手な思い込みだろうか。それぞれの考えをよそに、審神者はふっと唇の端を緩め、平坦な声音で言葉を返した。 「そうですね。わたくしが一通り基本の戦術について教わったあとに、改めて聞かせてもらえますか。」 「……りょーかーい。」 じゃ、今のとこ俺はお役御免ってことで。 立ち上がりながらそう告げて、清光は胸中で苦く笑った。今のところ、で済めばいい。永遠に日の目を見ない可能性だってある。墨のようにじわじわと広がっていく懸念がにじみ出ないように、清光はつとめて明るく尋ねた。 「ね、ところで俺、次はいつ出陣できるの? こう見えて俺、結構やれるよ?」 「他の者とも相談する必要がありますが、おそらく次の週に、あなたには出陣してもらうことになると思います。」 あなたが素晴らしい技量の持ち主である事は明らか。その時はどうぞよろしく頼みます。 そう言って律儀に頭を下げるのに、はいはーい、と軽く返して、清光は今度こそ場を辞した。むずかしいはなしはわかりません、と言う今剣に、そろそろ休憩にしようか、と石切丸が返しているのが聞こえる。日陰の廊下をたどりながら、爪を噛みそうになるのを紅がはげるからと必死で堪えた。 戦がしたいのかと言えば、違うと答える。けれど最初に審神者に告げた通り、いくら扱いにくかろうとも自分は剣だ。戦の中で使われるために生み出されたものだ。そこに価値がある。清光は剣だ。いくら着飾ろうともそれは変わらない。そして自分がどれだけ外見の美しさを気にしようとも、宗三や三日月のような真に価値があるものを前にしては、ちっぽけなものだと十分に知っていた。それでも、彼らに負けないぐらいに大事にされたいと、そう願い続けてきた。しかし大事にしまっておかれることを望んでいたのではない。ましてや中身の伴わないうすっぺらな賛辞など。 見くびられているのか、それとも見放されているのか。 清光には高みにいる人間の思惑など知りようもない。けれど誰かが勲功をあげるたび、噛みしめた奥歯が欠けていくような気がした。審神者から気にかけられていない事を理解しながらも、爪に紅色を落とし続けるのは、清光の意地だった。 次の戦で、自分がしなければならないことは、解っている。 久しぶりの戦場といえど、場を包む空気などいつだって似たようなものだ。ううんと伸びをして体を慣らしたら、敵陣に突っ込んで、ただひたすらに、切る。それの繰り返し。突き詰めれば戦術も陣形も何の意味がないと清光は思っているし、おそらくそれは真実だろう。こうして自分たちが出陣している今も、本陣でのんきにお勉強をしているだろう審神者の姿を思い描き、清光は嗤った。 あんたのしていることは無意味で、俺は剣で、あんたが考えているよりもずっと有能だよ。 ――早くそれを、認めてよ。 「張り切っちょるのう!」 「当然!」 声をかけてきた吉行に言葉を返し、敵を切り捨てて、先を急ぐ。次に呼ばれるのがいつかも解らないとあれば、今ここで目立った勲功を上げる必要がある。見苦しかろうとも、卑怯と言われても構わない。綺麗な生まれではないからこそ、姑息な手段を選ぶことができる。 「清光、出過ぎだ!」 誰の声かも解らない。あんたたちは後ろに下がってなよ、と、返したつもりだが、果たして言葉になっただろうか。剣を持ち直した時に、自分の爪から紅が不恰好に落ちているのが視界の端にちらと見えた。何もない爪、とっさに頭をよぎったのは真っ白な服をまとった審神者のことで、意識をそらした一瞬ののち、閃光のような痛みが体中を走った。 しくじった。そう思っても、もう遅い。 「清光! 撤退の命令だ、退くぞ!」 「冗っ、談……」 燭台が腕を引く。振り払おうとするのにその力もない。安全な場所まで連れていかれる途中、独り言のように「なぜあんな無茶をした」と燭台が言うのに、清光は口元をゆがめて笑った。それは、愛されてるあんたには解らないよ。でも俺はそうじゃなくて、着飾っても意味がなくて、剣としての価値もない。どうすればいいのかもう見当もつかない。そこかしこが破れた服と、欠けた爪と、泥が入り込んだ皮膚。もしも自分が審神者ならば、こんな剣、見向きもしない。 「こんなにぼろぼろじゃあ、愛されっこないよな……」 吐息に隠すようにしてそう呟く。中心地から離れたとは言えども戦場だ、言葉は誰の耳にも入ることなく騒々しさの中で掻き消えた。いっそこのまま消えてなくなりたい。せめて意識を失って、何も解らないうちにすべてが終わっていればいい。そう願うのに頭は冴えたままで、清光は引きずられるようにして本陣に戻った。 審神者の純白の衣装が、戦場から帰ったばかりの清光にはやけにまぶしく映る。清光はつとめてなんてことのないように、やっちゃった、と軽い口調で己の失態を報告した。ビー玉の瞳はしずかに清光を見つめたあとで、近くにいた薬研に「手当ての準備をお願いします」と声をかける。それを聞いて、清光は力なく笑った。 「……ははっ。修理してくれるって事は、まだ、愛されてんのかな。」 思わず漏れた言葉にも、審神者は表情一つ変えない。清光、と名前を呼ぶ声も平然としたものだった。 「清光。あなたの手当てが終わったら、すこし話をしましょう。」 「……それ、いまじゃダメな話?」 「あなたが想像しているような話ではありません。大事な話ですが、傷を治すほうが先です。」 では、手数をかけますが手当ての後にわたくしの部屋まで。そう続けて審神者は長い裾を翻した。清光について何も知らないだろう審神者に、話の内容を保証をされたところで何の助けにもならない。清光はその背を見送りながら、ただぼんやりとそう思った。 あれこれと理由をつけて訪ねないこともできたが、先に延ばすほどに自分の首を絞めるだけだろう。手入れが終わった後、そのまま鈍い足取りで清光は審神者の部屋に向かった。障子越しに漏れる暖かな光に、どうしてか泣きそうになる。俺の想像しているような話ではない、と言う。どこまで信じられたものか解らないその言葉に、すがりそうになっている自分の弱さにつくづく呆れた。 「審神者さまー、清光でーす」 「どうぞ」 返事を受けて戸を引く。初めて目にする審神者の部屋は清光の想像よりもずっと殺風景で、寒々しいと言ってもいいほどだった。大きな文机と、そこに乗った文書の数々。入って目につくものと言えばそれぐらいしかない。審神者は清光に座布団を勧めると、目の前に座してゆったりと口を開いた。 「傷の具合はどうです。」 「おかげさまで、もうすっかり。」 「その言葉を信じます。遅くなりましたが、今回の戦でのあなたの働き、見事でした。」 「……どーも。」 周りに誰かがいたなら不敬だと咎められてもおかしくない。けれど審神者はやはり、何も言わなかった。長い袖の下から少しだけ、やせっぽちの指先が見える。審神者は音がしそうなほどにゆっくりと瞳を伏せ、それから、しずかに問うた。 「清光。わたくしの言葉は、あなたに届いていますか。」 なんてことのない言葉だが、冗談で逃げることを許さない、真剣のような鋭さがあった。気圧されて清光も息を呑む。部屋のすみに置かれた火鉢の中で炎がぱちと弾けた。 「わたくしの言葉は、あなたにとっては薄っぺらく聞こえるかもしれない。けれどまぎれもなく、わたくしの本心です。」 わたくしがいくらあなたの事を称えようと、あなたはなにも信じていないように見える。 そして、わたくしがあなたを捨てることだけを考えているように、わたくしには見える。 「それ、は」 「何があなたにそう思わせてしまったのか、申し訳ないけれど、わたくしには見当もつきません。」 審神者はいっそ愚直なまでに真摯に言葉を紡いでいく。耐えられなくなった清光が少しだけ目を伏せると、先ほどまで綺麗に重ねられていた指先がかたく握りしめられているのに気づいた。きつく結ばれたこぶしは陶器のように真っ白で、はやくほどかなければ傷ついてしまうと思うのに、ふさわしい言葉が見つからない。混乱する清光をよそに、審神者はそっとささやくように言葉を発する。 ――わたくしは、どれほど傷ついてもわたくしのもとに帰ってきてくれたあなたを大事に思いこそすれ、邪険になど、しません。 「けれど、このような言葉も届かないのなら、」 「ちがう、ちがくって、」 清光はとっさに腰を浮かせて距離をつめると、ちいさな手を拾ってそっと握りしめた。これ以上、自分のせいで、彼女を傷つけたくないと思った。自分を傷つけるような言葉を言ってほしくない、と、そう思ったのだ。 最初に抱いた印象と変わらず、清光の手ですっかり覆い隠せるほどに小さなてのひらは、氷のように冷たかった。暖かな部屋のなかで、こんなにもてのひらを凍らせて、どれだけの覚悟で言葉を口にしていたのだろう。自分の言葉が届かないと解っている人間に、話をしようと言うのには、どれだけの勇気がいったことだろう。考えてみれば解る事なのに、たよりない指先に触れるまで、清光は彼女のことを何一つとして想っていなかったのだ。 「ごめん、そうじゃなくて、俺が、」 何かを告げなければと思うのに、気ばかりが急いて言葉が見つからない。清光。呼ぶ声はいつもよりもおさなく聞こえた。冷たい指先。つながったところから、自分が思っていることがすべて伝わればいいのにと思うのに、そうできないから言葉を探すしかない。 「だけど、あなたはこんな、俺みたいな、川の下で生まれたような剣なんて、必要、ないでしょ」 震える声でそうつぶやくと、なぜ、とかすかな言葉が返る。 「なぜって、あなたは、高貴なひとだから。……俺とは違う世界のひとだ」 「……清光。それは、」 そこで言葉を切って、先ほどの清光のように目線をふっと下げた。いまだ清光が包み込んだままのてのひらにすこし力が込められたのが解る。時間をかけて息を吸ったかと思うと、ふたたび清光の瞳をまっすぐに見据えて口を開いた。 「清光。わたくしは、高貴な生まれの人間ではありません。」 「……けど、あなたの言葉は、それに立ち居振る舞いだって、」 「この言葉も、しぐさも。全てはまがいものです。」 言葉の意味をとらえきれず眼をみはった清光に、少女は苦く笑って言葉を続ける。彼女にはめずらしい、あからさまな表情の変化だった。 「わたくしは貧しい家の一人娘です。小さな村の出身で、その場所にとどまって一生を終えるのが、誰にとっても当たり前でした。けれどわたくしの母は野心があった。わたくしを富豪の家に嫁がせるという夢が。」 清光は何も言えずに、ただ彼女の手を取っていた。かぼそく震えている指先が、いつまでも温まらないのが不安で、苦しくて、清光はつい力を込めてしまう。 「呆れてしまうでしょう。けれど母は本気で、わたくしもまた、自分の人生はそれに応えるためにあるのだと……。なんにせよ、わたくしは、うわべだけを上等に見せかけた、なんにもない審神者に過ぎません。」 ――清光。幻滅しましたか。 冬の湖のおもてのように、すきとおった声だった。清光は慌てて首を横に振る。まっすぐにその眼を見つめたいと思うのに、ひどいことを言わせてしまった罪悪感からか、顔を上げることができなかった。うつむいたままで、ただひたすらに、ごめん、ごめんなさい、と謝罪を繰り返す。 罪悪を覚えるのは、清光がたしかに、この少女の事をなにもないからっぽの娘だと思っていたからだ。おしあわせなお嬢さんと決めつけて、それから先を探ることをしなかった。 「ごめん、俺、ばかで、……あなたのことを考えないで、自分の事ばっかりだった。」 「清光。このようなわたくしでも、あなたは、わたくしのもとで、戦ってくれますか。」 「あたりまえだよ、そんな、」 おもてをあげて必死でそう答えると、少女は目の端をやわらげて微笑んだ。よかった、と、つぶやくその声があまりにも慈愛に満ちているものだから、清光は自分の瞳が潤んでいくのを止められない。 「ありがとう、清光。わたくしのもとに来てくれたあなたを、本当に、いとおしく思います。」 「俺も、あなたが主様で、よかった。」 あるじさま。はじめて口にする言葉は、おどろくほどかんたんに清光の舌になじんだ。しかししばらく経っても何の反応も返らないのに不安になり、「信じてもらえないかもしれないけど」と逃げるように付け足す。恐ろしくなって腕を引こうとすると、かえって強くてのひらを取られて、清光はぎょっとした。 「清光、いま、」 「あ、えーっと、俺もみんなみたいに、主様って呼んでいい? い、いやだったらやめるけど!」 「まさか! 嫌なはずがありません。今夜はわたくしばかり喜ばされていますね。」 そういってらしくもなく子供のように無邪気に喜んでみせるので、清光は自分の頬が緩むのと同時に赤くなっていくのを感じた。こんな、なんてことのない言葉ひとつでこんなにも喜んでくれるのならば、もっと早くに呼んであげたかった。……もっと早くに、こうして、膝を突き合わせて話しておけば、よかったのだ。清光は自分が殻にこもって無駄にした時間を思い返し、どうにもくやしい気持ちだった。 ――けれどそれはこれから、追々、取り返していけばいい。 「今日は長い一日でしたから、ゆっくり休んでくださいね。」 「主様も。あ、あとで湯たんぽでも持ってこようか? 指先、冷たいままだよね?」 「いえ、それには及びませんよ。あとで自分で。」 「……俺がしたいんだけど、だめ?」 窺うようにそう尋ねると、主はふっと微笑んで、それではよろしく頼みます、と言う。その言葉に、舞い上がりたいほどに喜んでいる自分を見て、わがことながら現金なやつだ、と苦笑した。「じゃあ、すぐに戻ってくるから!」と、駆け出しそうになる足をこらえて口にする。 「清光、走ってはなりませんよ。」 「解ってる!」 「あともう夜も遅いですから声は控えめに。」 「……はーい」 「それと、」 「まだあるの?」 かわいらしいお小言の嵐に清光が振り返ると、主は真夜中に溶け込むほどに深みを帯びた声で、一言。 「ありがとう、清光。」 それは、清光の気遣いに対する感謝の言葉なのか、それとももっと、奥に何かを含んでいるのか。 清光には判じることはできない。けれど、ただ満ち足りた気分で、静かに目を伏せた。 「――どういたしまして、主様。」 これはまだ、春が来る前の話。 |