窓に雨粒があたって跳ね返る音で目が覚めた。 いつの間に眠ってしまったのだろう。あまり記憶が定かではない。疲れ果てて職場から帰宅して、どうにかしてシャワーを浴びた事までは覚えている。食事はいつも通りとらなかった。何かつまみたいような気もするけれど、それ以上にもう少し眠っていたい。そもそも買い物に行かなければ冷蔵庫の中には何もないのだ。雨が降っているのに外に出て食べ物を調達する? そんなことは億劫だ。 雨音は強くなる一方だった。うるさいような気もするのに、どこか懐かしくて泣きそうになる。包まれているような気もするし、閉じ込められているようにも思う。まるで世界中に私しかいないみたい。あるいは、私を必要としている人がひとりもいないみたいに。ひとりぽっちなのに変わりはないけれど、いったいどちらのほうがより孤独なのだろう。 私はゆっくりと目を閉じる。枕元に置いた携帯電話が震えていた。何度も何度も続く振動に、テキストではなく電話だと解る。一度切れては間を置かずにもう一度。こんなにしつこい方法で電話してくる人間なんて、私は一人しか知らない。その人物は私が電話に出ない限りずっとコールし続けるのだろう。ぼうっとする頭で電話を取ると、電波に乗って予想した通りの声が聞こえた。 「起きろ」 「……起きてるわ」 「起き上がって、玄関のドアを開けろ」 「……は? 玄関?」 「早く」 一方的に通話が切れる。事態をうまく呑み込めないままに携帯を見つめていると、「早くしろ SH」と催促のテキストが入る。それを見て、私はようやくもたつく足でベッドから抜け出した。起き上がってガウンを羽織り、身支度を整える暇もないままに玄関の鍵を開ける。途端に冷たい空気と雨のにおい、それからシャーロックがするりと部屋に滑り込んだ。いつものブルーのマフラーと、ゆるいカールのかかった髪の毛は、雨に濡れてすこし色を変えていた。 「濡れてる」 目の前の出来事が信じられなくて、私はただぼんやりそうつぶやく。聞こえているだろうにシャーロックは何も言葉を返さない。どうやら今は、解り切ったことについて口を開きたくないみたいだ。いつものようにコートを適当に脱ぎ捨てるので、私はそれを拾ってハンガーにかける。香水の上品な匂いと、神経質にぴったりと合わさった指先。いま目の前にいるのは確かにシャーロックで、だからこそ私は混乱していた。 「どうしてこんな雨の日に、わざわざここまで来たの」 ひとりごとのようにそうつぶやくと、シャーロックは心外そうに片方の眉を持ち上げた。気づいていないのか、と心底馬鹿にしたように顔をゆがめる。いけすかない顔だと思うのに、それと同時にとてつもなく色っぽいように見えて、私は何も言えなくなってしまう。 「雨だからだ」 いつも通りで全く答えになっていない。私は小さく息をついて、「もう少し解りやすく説明してくれる?」と口にする。私のこの返事だって定例文のようなものなのに、今日に限っては口にするのも億劫だ。 「端的に言う。君は雨の日に精神に不調をきたしやすい。食事も睡眠もおろそかにするし情緒が不安定になる。原因は不明だが素振りから考えるに過去のトラウマというわけでもないようだ。陰鬱な光景と気圧の変化に精神が参るのか。そして雨の日の君を観察したところ、そばに人間がいると比較的症状が軽減される傾向にある。」 だから来た。君が言うように、雨の日に、わざわざ。 シャーロックはほとんど一息でそう言い切った。どこが端的なんだ、と思いながら、私は何も口に出せずにただぼうっと彼を見つめる。雨のにおいとうすい唇。たまらなくセクシーで、どこか非現実的だ。シャーロックが推理を披露してからたっぷり2分ほどかけて、私はようやく彼の言葉を呑み込んだ。 つまり私はいま、とんでもないことを言われているのかもしれない、と。 「その、……どうしてあなたが? いつものあなただったら、ジョンに様子を見てくるように言うんじゃない?」 ジョンにとっては災難で、失礼な言い方になるけれど、と付け足す。シャーロックは私の言葉を一蹴した。 「ジョンは仕事だ」 「あ、そう、そうよね、」 「だがたとえジョンが暇でも僕は一人で来た」 「……なぜ」 「なぜ? 僕がそうしたいからだ」 押し問答のようで頭がくらくらした。誰かがそばにいればと言うけれど、シャーロックがそばにいてもかえって心が乱される。意図がつかめない会話、濡れた髪の毛、透き通るような瞳。まともな返しが何も思い浮かばなくて、それまで聞こえなかった雨の音が途端に耳をついた。何も言葉を発しないくせに、シャーロックのまなざしがやけにうるさく響く。 何もかもがスローモーションみたいにゆっくりと見えた。シャーロックが唇を開くのも、自信たっぷりに笑うのも、すべて。 「物分かりが悪い君にもう少し説明をしよう。僕にとって君は特別な存在だから僕はここに来た。雨の日に、わざわざ、濡れてまで。君を一人にしておきたくないと思ったし君のそばに誰かがいたらと考えるのも胸糞が悪い。そして何より君はいま、僕が言った通り不安定で弱っている。狩りでは獲物が弱っている時を狙うのは定石だろう。事実君は先ほどから僕の言葉に翻弄されている、違うか? そしてその根本にある感情がマイナスなものとは僕は思わない。君の態度や瞳孔の動きは言葉や沈黙よりも正直だ。――さて。」 シャーロックは意地悪く笑う。狡猾な大人が見せるものというより、いっそ子どものような無邪気さが瞳を輝かせている。言いたいこと、あるいは言い返したいことはいくらでもあるのに(狩り? 獲物? この人は私を一体なんだと思っているのだろう?)、何も言葉が出てこなかった。それでもシャーロックの言葉が正しいのなら、私の瞳や私の動作が、言葉の代わりに何かを伝えている。 「君は僕のことが好きだ、そうだろう?」なんて、外している可能性なんてこれっぽっちも考えていないだろう顔つきでシャーロックが言う。私は反論を諦めて、「……そうだと言ったら、どうしてくれるの?」と半ば投げやりな気分で口にした。世界は雨に閉ざされているのに、私に会いに来てくれた男がいて、私はその人のことをたまらなく色っぽいと思っている。何かが生まれなければ嘘みたいな夜。いや、昼かも。時間なんてもうどうだっていいけれど。だってじきに解らなくなる。深海に似た瞳が私に近づいて、雨の音だってきっと、すぐに気にならなくなる事だろう。 |