いまでも思い出す。まっすぐに透き通った狡噛の眼と、冬の寒さと、失ってしまったもの。狡噛がまだ煙草を吸っていなくて、私の髪もまだ長かった時の話だ。
 「……ねえ、狡噛。私が佐々山のことを忘れたら、あなた、どうする?」
 「……どうもしないだろうな。それが自然だ。」
 「自然」
 私は驚いて同じことばを返す。狡噛は何も言わなかった。ただ苦く笑って私の隣に並び立つ。かつて他の人間が立っていた場所を埋めるように。
 「でもあなたは私が佐々山を忘れたらきっと悲しむのに?」
 耐えきれなくなって私は一息で尋ねた。狡噛はしずかに言葉を紡ぐ。
 「そうだな」
 俺は悲しむんだろう。だけど、それだけだ。悲しみを押しつけるのは性に合わない。おまえが忘れたいと思って忘れた事を、俺の都合で思い出させるのは、酷だ。
 狡噛は詩でも朗読するかのように呟いた。いやになるほど正しいことしか言わない男だ、と思った。私を思いやっての言葉なのに、どうしてか置き去りにされたような気分になって、私は黙ったまま狡噛の足を踏んだ。こどもみたいな仕草。実際、狡噛は、だだをこねるこどもを見守るように私を眺めている。どんなに喚いてもなにも変わらないよ、という瞳で。
 「……忘れられるわけ、ないじゃない」
 悔しまぎれに呟く。そうだ、忘れられるわけがない。だってあんなにも楽しかった。あんなにも色々な事があって、様々な言葉を交わし、いろいろな事を夢見て笑ったのに。
 「そうだな」
 狡噛は同じ言葉を繰り返した。まるで私の言葉を信じていないみたいに。もういちど足を踏んでやろうか悩んだが、私は結局狡噛のコートの裾を掴み、「忘れたくないのよ」とだけ言った。狡噛は、黙って私の肩を抱いただけだった。

 狡噛は正しいことしか言わない。きっとこうなることだって見通していたのだろう。忘れたくないと言い張った私はもう、佐々山の笑い方も、匂いも、仕草も、夢の中のことのように曖昧にしか思い出す事が出来ないでいる。いつか完全に消えて、断片しか思い出せなくなって、私は佐々山のことを名前以外すべて忘れてしまうのだろう。
 それがいなくなるということ。
 狡噛は、私よりずっと喪失を理解していた。


 私はときどき狡噛に問いかける。
 「狡噛、いまあなた、かなしい?」
 狡噛は答える。煙草を片手に持ち、笑って、
 「まだ悲しくない。」