http://www.ne.jp/asahi/kurenoai/gurenn/title_1.html 01 髪を梳く 森山くんが私をソファに誘う。仕事から帰ってきたばかりなので出来れば着替えたいし、シャワーを浴びて化粧だって落としたいけど、おいでと言われると抗えない。森山くんは私を抱え込むようにしてソファに腰かけると、ちゃん、と私の名前を呼んだ。気付いているくせに。わかっているくせに。今そんな声で呼ばれたら、泣いてしまうかもしれないってことぐらい。 「……なに?」 森山くんの大きなてのひらが私の髪をさらっては優しく頭を撫でる。昔に母親にしてもらったみたいな仕草。こぼれそうな涙をこらえて「どうかした?」と尋ねると、森山くんは困ったように笑った。 「どうかした、のは、ちゃんでしょ」 「やっぱり、どうかしてるように見える?」 「その言い方だと語弊があるけどね。頑張ったんだろうな、っていう感じがする」 こういう時の森山くんは本当に、ほんとうにずるい、と思う。疲れている、と表現する事だってできるし、実際そちらのほうがずっと近いのに、そうは言わない。ネットで学んだ知識とかじゃなくて、この人の優しさが言わせる言葉。私はいつもそれに安心する。そしてすこし、泣きたくなる。 「森山くん」 名前を呼んで胸のなかに飛び込んだ。いつもだったらこれだけで大騒ぎする森山くんが今日は何も言わない。ただ笑って私の頭を撫でていてくれる。「おつかれさま」という言葉と、「がんばったね」という言葉を、おまじないみたいに繰り返して。きょう家に森山くんがいてよかった、と思うし、私がシャワーを浴びる前にこうしてくれてよかった、と思う。シャワーに先に入っていたらそこでひとりきり泣いていた、そしてきっとこんなにも素直になれなかった。いつもは照れが勝つのだが、今日だけ、今日ぐらい。そう思いながらぎゅうと抱きつくと、「いつだって情熱的に抱きしめてくれていいんだよ?」と冗談交じりに森山くんが言う。その言葉の明るさに、私はひどく救われるのだった。 02 口付けを落とす 「このまま眼を覚まさないんじゃないかって心配してるんでしょうけど」 彼、あと数日もすれば復帰できるわよ。呆れたように告げる志恩に私は苦く笑って答える。 「別にそんな事、考えてないわ」 私の言葉に志恩は困ったような顔をする。短くなった煙草を灰皿で押しつぶしながら志恩は尋ねた。 「だったらなんでそんなに思い詰めたような顔で見てるのよ?」 「そう見える?」 「見えるわ。悪いけど、心配してないって言っても説得力ないわよ。」 そう。私は静かに言葉を返して、モニタ越しに狡噛を見つめた。しろい部屋で眠り続ける狡噛。お姫様みたい。志恩のほそい指がシガレットケースから煙草を取り出すのを眺めながら呟く。 「本当に、心配しているわけじゃないのよ」 ただ。 「目覚めなければいいのに、って、思っているだけ。」 目覚めて、いつか私を置いていくぐらいなら。 たとえば狡噛と同衾する夜、私の方が早く目覚めた朝、荒れたてのひらに指先を絡める時。あなたが物語の中のお姫様で、私の口づけに願いを込めることが許されるのなら、私はただ一つのことだけを願うだろう。 狡噛のまっすぐな瞳など、私はもう見たくない。 03 指を絡ませる 「どこにいても、君のことを見失いたくないんだけど」 うまくいかないね。さんはそう言ってボクの眼を見てほほ笑む。黒子くん、と不安そうに呼びかける彼女の声。ここにいます、と告げると嬉しそうに、そしてどこか申し訳なさそうに「よかった」と言う。 「さん」 「はい?」 「あなたがボクを見失うのは、ひとえにボクの影の薄さが原因なのであって、あなたのせいではありません。」 だからボクはあなたの気持ちを疑った事はありませんし、気に病む必要もありません。 「……気付いてたの?」 「なんとなく」 そうだよねえ、黒子くん人間観察が趣味だもんねえ。ばれちゃうよね。なにか気まずい事がある時の癖でさんは前髪をかき分けると、ぼそぼそと言葉を続けた。 「なんか、私がもっとちゃんと君のこと見てたら、こんな風にならないんじゃないかな、って思っちゃうんだよね」 私が本当に好きなら、とかさ。 そうじゃないって解ってるんだけど。解ってるんだけど、さ。そう言ってさんはひざを抱えて小さくなってしまう。 「だったら」 ボクはさんの手をそっと取る。指先が震えていた。汗もひどい。それでも声だけはいつも通り平坦なのが自分でも滑稽だった。 「今度から、こうして外を歩きましょう。」 そう言っててのひらを重ねて。指先を合わせて。ボクの手だって大概小さいほうだと思うけれど、さんのてのひらは真っ白くてすべてが華奢で暖かく、そしてやっぱり少しだけ、汗をかいていた。 「……いいの?」 「もちろん」 断る理由なんてどこにもない。だってボクだってずっとこうしたかった。ただ、美しいあなたの横に立ってそのてのひらを取る勇気が足りなかっただけなのだと告げたら、さんは怒るだろうか、泣くだろうか、笑うだろうか。 04 傷の舐め合い 死にそうになって、生きのびて、それを何度か繰り返して。気が付いた時にはそれなりの役職が与えられ、簡単に弱音を吐けるような立場じゃなくなっていた。私より優秀な人間は数えきれないほどにいたけれど、彼らは私よりずっと勇気があって、強く、信頼されていたからこそ死んでいった。なにも出来ない、ただ生きのびただけの私が、人から指示を仰がれるようになる。生きているという事はただそれだけで皮肉だ。 私の背中に何も期待しないで。そう祈りながら私は今日も笑顔を作る。私が笑っているという事だけで安心する兵士がいると知ってしまった。知ったからには、内心でどれだけ絶望していてもそれを顔に出す事は許されない。いつだってこの顔は、この口は、嘘をつかなければならない。それがどれほど見え透いた気休めであっても、失意のままに死んでいくよりもましだと信じて。 壁が破られて、また、たくさんの部下がいなくなった。きっと生きていれば私よりもずっと昇進できただろうに。彼らの一部だったものを見送っている間、私はいったい、どんな顔をしていればいいんだろう。向こうから私を目指して歩いて来る男に、私はいま、どんな顔で接すればいいのだろう? 「リヴァイ」 「いつもに増してひでえ面だな」 「そういうあなたも相変わらず口が減らないみたい」 苦く笑いながら告げると「笑うな」と一言で斬り伏せられる。 「お前の笑い方は反吐が出る」 そんなの、私が一番知ってる。 「リヴァイ」 ああ、いやだ、こんなか細い声を出してはいけない。私はいつだって余裕のふりで笑って、勝ち目がなくとも大丈夫だと言い聞かせて、無責任に明日の話をして、そうしていなければいけないのに。 何も持っていない私を知っているこの男のそばでは、私の虚飾がすべて剥げ落ちてしまう。 舌打ちがひとつ。それから体格に見合わない力で腕を引かれて、誰の目にもとまらないところまで誘導される。迷子の子供みたいだと思ったけれど、それを口に出す余裕はなかった。 「」 リヴァイの瞳は迷わない。実際のところ何を思っていても、この男は決してそれを表には出さない。だからみんな、リヴァイの強さに憧れる。そして私は、その強さに絶望する。 「笑うな」 「……駄目だよ」 笑っていなければ駄目なんだ。リヴァイ、あなたが迷う事を許されないように。 「誰も見てねえ」 「あなたがいる」 「俺にとってお前は部下か? 導いてやらないといけないほど弱い存在か?」 「違うけど」 「ぐちゃぐちゃ言ってんじゃねえ」 「違う、けど」 だけどあなただって私と立場は一緒で、あなたが迷いなく突き進んでいると言うのに私ひとりだけ泣くなんて、許されるはずがない。 「できないよ、リヴァイ、できない」 「許可がいるなら」 仮にそんなクソみてえなものが必要だってんなら、俺が許す。 リヴァイはそう言うと、私のまぶたの上にてのひらを重ねて視界を覆ってしまう。何も見えない、何もない、それがひどく怖い。たまらなくなって目の前にいるはずの男の名前を呼ぶと、リヴァイは何も言わずに私の体を引き寄せた。耳元で微かな声がする。リヴァイのこんな頼りない声など、いったいいつぶりに聞いただろう。 「だからお前も、俺が馬鹿みてえな事態を前に足を止めたなら、その時は余計な事を言わずに胸を貸せ」 それでいいだろう。 そう言ってリヴァイは私の背中にまわした腕に一層力を込めた。顔が胸元に押し付けられて何も見えない。 だから何も、聞こえない。 05 背中合わせ え? とリヴァイ? ああ、エレンも見たんだ? そうそう。あんなの日常茶飯事だからねー、もう大体の人間は驚かないんだよ。いやー、ガキっぽい喧嘩してるでしょ、あの二人! あんないがみ合い、いまどき子供でもしないよね。 うん? いや、そんな心配するほど仲が悪いってわけじゃないよ。最初が喧嘩腰で始まったから、今更変えようがない、ってのが本当のところなんじゃないかな。うん。だってあの二人付き合ってるもん。 はは! いやー、いいねえ、いい顔だねえ。信じられないよねえ。まあでも、もう少しあの二人と付き合えば嫌でも理解すると思うよ。あ、別に人前であま〜い会話をするわけじゃないから、そこは期待に応えられないと思うけど。 具体的には、そうだなあ、「どちらかが先に死んだら、生き残ったほうは思うさまに笑い飛ばしていい」っていう取り決めをしてたりとか。はは! うん、言葉だけ見たらさ、すごい殺伐としてるよね。実際その時の会話だってひどかったんだけど。は「リヴァイに笑われるとか悔しくて生き返れそう」って言ってたし、リヴァイはリヴァイで「せいぜい悔しがってろ」って返してたかな。うん。いや、嘘ついてないって。本当にあの二人付き合ってるって。 素直じゃないからね、二人とも。死なないで、なんて簡単に言えるような性格でも立場でもないしさ。それが精一杯なんだよ。うん。もちろん立場なんてね、些細なことなんだけど。だけどあの二人は覚悟を決めてるから。実現のために死ぬのを厭わない。そんな人間に対して言う「死ぬな」なんて言葉ほど残酷なものはないよね。そう。あの二人に限ってそんな事は間違いなく起こらないだろうけど、その言葉が原因で、手が止まったら、好機を逃したら、って思うとさ。言えないんだろうねえ。 例えば、さ。この世界から巨人がいなくなる、ないしは目立った危険がなくなるとして。その時あの二人は、どうするんだろうね? 巨人の存在ほどじゃないけど、ちょっと興味があるよね! そんな不器用な言葉で誤魔化さなくてもよくなったら、あの二人は、どこに行くのかなあ。え、そうかな。言われてみれば、そうかもなあ。なんだろうなあ、いや、くっつくまでに紆余曲折があった、ってのも大きいのかもしれないんだけどさ。たぶん私だけじゃなくてほとんどの人が同じ事を考えてると思うよ。うん、いや、リヴァイはどうでもいいんだけどね。は割と昔からの付き合いだから、あんまり悲しんでる姿は見たくないんだ。仮にリヴァイがどうなろうと、あの子は泣かないんだろうけど。うん? ああ、そうだね。約束通り、笑っちゃうんだろうね。ふたりとも、馬鹿だからさ。 さて。話はここまでにして、実験に移ろうか。あの二人が今後どうなるかも、エレン、君の肩にかかっている! ……なんてね。 06 暴露 「わたし失恋したみたい」 やにわにそう告げると、赤司は神妙な面持ちでまったく同じ言葉を繰り返した。 「失恋」 「うん」 「初耳だ」 「だって初めて言ったもの」 「それもだけれど、まず、おまえ恋なんかしていたのか」 ちっとも気付かなかった。赤司はぽつりと呟く。 「赤司には、バレてるって思ってたけど」 だって涼ちゃんも青峰くんも、あ、緑間くんだって知ってたし。そう続けると、赤司は眼を見開いた。 「他のふたりはともかく、緑間が気付いたのか?」 「うん。お前は解りやすいな、って言われたけど」 「……そうか」 きっと赤司はいまとても失礼な事を考えている事だろう。確かに、あまり人の心の機微に興味がない緑間くんが知っていて、人を見透かすことが特技のような赤司が気付かない事なんてそうそうありはしない。だからきっとこれは例外。自分の事をないがしろにしがちな、この男の、唯一の例外。 「……誰に、と。聞いてはいけないんだろうね」 「いけない事はないけど。ただ、聞かれても、言わない」 言えない。だってこうして会話をしているだけで十分で、それ以上の事を求めて困らせたくなんかない。だって赤司はいま、日本一になることだけを目指しているんだから。そんなところに私のこんな気持ちなんて、うっとうしいだけだ。 「そうか」 赤司が少しだけ視線を落とす。そういえば、私がこの男に隠し事らしい隠し事をしたのは、これが初めてかもしれない。 「どうして赤司がそんな顔をするの。私なら元気だし、部活にだって支障は出さないようにするから」 「そうじゃない」 俺が気にしているのは、そんな事じゃないんだよ、。赤司は物憂げにつぶやいて言葉を続ける。 「どうやら俺もいま、失恋したらしい」 07 頬に触れる そもそも、こんな話題を振ったのは他でもない、自分だった。 「さっちゃんは本当に美人だし、気もつくし、分析力もあって、いい子だよねえ」 そう言った内容に嘘はない。さっちゃん――バスケ部のマネージャーつながりで仲良くなった、桃井さつきちゃん。きっと私が男だったら間違いなく恋をしていた、そこまでいかずともきっと眼で追ってしまう。誰もが愛さずにはいられないような、魅力的な女の子で、大好きで、大好きなのに。 なんでこんな話を振ってしまったんだろう。どうしてこんなにも苦しいんだろう。緑間が私の言葉を否定しなかった、ただそれだけで。 「そうだな」 桃井はよくやってくれていると思うのだよ。 たったそれだけで、好きだなんて言ったわけじゃない。だけど、もしかすると、その言葉以上に息が詰まる。 いまの緑間にとって一番大切なのはバスケで、緑間にとってさっちゃんはそのバスケをプレーする上でかけがえのない存在だ。私にはできない。どんなに頑張ったって私はさっちゃんにはなれない。私はいくらでも代わりがきくけれど、さっちゃんは誰にも代われない。 もっと頑張って、もっと気をまわして、もっともっと。今までずっとそう思って頑張ってきた。もちろんチームのため、自分のため、だけどそれだけじゃない。私は緑間に褒めてもらいたかったんだ。認めてほしかったんだ。だからさっちゃんを持ち出した。さっちゃんを褒めて、その次で構わないから私にも何か言葉が欲しかった。「桃井には及ばずとも、もそれなりに人事を尽くしているとは思う」とか、そのぐらいでもよかった。どんな言葉が続いても構わないから、とにかく一言、私にも触れてほしかったのだ。気付いてしまうと、自分の浅ましさに泣きたくなる。 緑間はそれきり何も言わなかった。だから私も何も言わずに歩いた。駅までの道が遠い。最初、緑間が「もう夜も遅いから、駅まで送るのだよ」と言ってくれた時はあんなにも嬉しかったのに。歩調を緩めて、緑間が私の横で並んで歩く。それだけで幸せだと思ったのに、どうして欲張ってしまったんだろう。どうして言葉が欲しいと思ってしまったんだろう。好きとか、そんな言葉までは求めない。ただ一言、彼の好きなものに貢献できている自分を感じたかった。思い上がって、地に落とされて、なんて馬鹿なことをしたんだろう。 そっと人差し指で眼のふちをなぞる。泣いていない事に安堵して、それからひどく失望する。 いっそ今すぐ泣き出してしまいたかった。こんな中途半端な場所にいるぐらいなら、泣き出して、喚いて、呆れた緑間に放り出してほしかった。こんなにも苦しいのなら、もう二度と話しかけてくれなくてもいい。実際にそうなったらきっとまた傷つくのに、私は馬鹿みたいに願っている。何も与えられないのなら、何も期待なんかしないように。何も意味がないのなら、私の横を、そうやって気を使って歩いたりなんかしないで。 何もない事を知っていても、こうして打ちのめされても、それでも。私はまだ、みっともない期待を捨てられない。 08 秘められた関係 「あのさ、月島と……? って、どういう関係? なの?」 部室で着替えをしている時に日向にそう尋ねられたが、僕は聞こえないふりをした。そのまま手を止めずに制服のボタンをひとつひとつ止めていく。すると途端に隣できゃんきゃん吼え始めるので、とりあえず露骨に眉をしかめておいた。 「質問してるんだから無視すんなよー!」 「あ、ごめーん。あまりにも低いところから話しかけらるもんだから、聞こえなかった」 「ぐ」 「あと質問の意味が解らなかっただけ」 「聞こえてんじゃん!」 ああうるさい。本当に小型犬みたい。ところで着替えの手が止まってるみたいだけど、帰り遅くなってもいいの? いいんだろうね、ていうか日向の場合、部室で寝泊まりとか許可されたら本当に泊まり込みそう。朝から晩までバレー漬けの生活を幸せというか、どうか。そこらへんもまた、天才と凡人の差なのかな。 「だってさー、月島、下の名前で呼ばれるの嫌みたいなのにには呼ばせてるし」 ぼんやりと下らない事を考えていると、隣で日向が呟いた。証拠を並べるだけ、まあ、王さまより賢いかもね。 「なんか気安いし」 いきなり論拠の質が下がったのは指摘しないでおこう。なんかもう、付き合うのも面倒くさい。 「別に。ただ同じ中学だったってだけだよ。話はそれだけ? じゃ、お疲れ様でーす」 最後の言葉を部室に残っていた全員に向けて発して、まだ不満そうな顔をした日向を置いて部室を出る。待ってよツッキー、という山口の声がしたけれど、ヘッドフォンで聞こえないふり。ほんとこういう時に都合がよくて助かる。 言った言葉に嘘はない。と僕は同じ中学で、気が付いた時にはは僕の事を下の名前で呼んでいた。何度僕が嫌な顔をしても直さないので諦めただけというのが真実だ。「綺麗な名前だよね」と、まるで自分について褒められたみたいに嬉しそうには笑っていた。僕としてみたら何がそんなに彼女のお気に召したのか解らないのだけれど。 特に不便もないが、不満はある。さきほどの日向みたいな勘違い。「なあ、月島ってさんと付き合ってんの?」とか、「月島くんとって、恋人なの?」とか。入学して数か月で僕はその質問を何度受けただろう、そのたびに僕は同じ言葉を返すのだ。「別にそんな関係じゃないけど」。そのあとの展開は、まあ、お決りだよね。質問したやつの狙いが僕かかってだけ。 は客観的に見てもそれなりにかわいい顔をしているし、性格もさっぱりしていて、一言でいえばモテる。そんな人間が僕の事だけを名前で呼ぶのだから、疑われても仕方ないのかもしれない。だけど、僕とはそんな関係じゃない。本当に、日向に言った言葉の通り。僕とはただ同じ中学だったっていうだけで、それ以上でも以下でもない。 どんな関係かなんて、僕のほうが知りたいよ。が僕の事だけ名前で呼ぶ意味を深読みだってしたいけど、残念ながら僕はそこまでおめでたい人間じゃない。の気まぐれに振り回されて、名前を呼ばれるだけでちょっと浮かれちゃったりして、本当に我が事ながら救いようがない。だけど、名前で呼ばれ始めたのと一緒で、気がついた時にはどうしようもないぐらいに好きだって思ってたんだから、ねえ? ぜんぶがぜんぶ、簡単に片付くことじゃないんだ。もう少し僕が馬鹿だったら、そんな風に部室で叫んでいたかもしれないから、日向は僕の我慢強さに感謝するべきだと思うよ。 09 庇う 「私、もう少し自分の事、まともだと思ってた」 ぽつりと呟くと、隣に立つエルヴィンがおかしそうに口元を緩めた。 「そう言わずとも、君は私が知る人間の中では最もまともな人間だよ」 「それは比較対象が悪いんじゃないかしら」 エルヴィンの茶化すような言葉につられてちいさく笑う。心からは笑えないまま、ちいさな声で言葉をつづけた。 「そんな事を言っている場合じゃないって、頭では解っているんだけれど」 ミカサをかばって怪我をしたでしょう。呟くと、聡明なエルヴィンはそれだけで全てを察したようだった。 「もちろん、その場にいたのが私でも、あいつと同じ事をしたと思う」 出来たかは別にしてね。自嘲するように言葉を足すと、エルヴィンはそっと私の肩を抱いた。必要以上に卑下しなくていい、という言葉の代わりに、いつだってエルヴィンはそうしてくれる。 「ごめん。回りくどく言ったけど、私、嫉妬してるの。ミカサに」 そんな事、してる場合じゃないのに。解ってるのに。だけど、どうしても手放しで喜べない。あいつは、リヴァイは、対象が私でも同じことをしただろうか。いや、しない。きっとリヴァイは自分と私を天秤にかけて、私に価値がないと思ったならちゃんと見捨ててくれるだろう。そんなリヴァイを好きになった。恋人なんかに心を揺さぶられずに、目指している目的のためにちゃんといらないものを捨てられるあの男が、好きだった。 そう思っていたはずなのに、どうして今、こんなにも胸が痛いんだろう。 エルヴィンが微かにほほ笑むのが気配で解った。、と優しく私の名前を呼ぶ。泣きたくなってしまうほど甘やかした声で。 「そういう風に感じられるのも生きていればこそだ、。悪い事じゃない」 「まともじゃないわ。どうかしてる。」 肩に回されたエルヴィンのてのひらに自分のてのひらを重ねて縋りつくと、エルヴィンはふたたび私の名前を呼んだ。 「。人間らしさを失わない君が、私は好きだよ」 「自己嫌悪で吐きそう」 「いま? それは困る」 真面目くさってエルヴィンがそう言うので、私は力なく笑った。エルヴィンは少しだけ腰をかがめると、私の耳元にくちびるを寄せて囁く。 「目線をすこし右にやってごらん」 「え?」 「そうっとね」 まるで見世物でも見る時のようにエルヴィンは言う。言葉の通りに静かに目線を動かして、私はひどく狼狽した。 目線の先には、剣呑な眼つきでこちらを見やるリヴァイがいる。 「……ええと。あれは、どういう事かしら」 「常に誰もを殺すような目つきの男だが、今は特にひどいな」 私がこうして君と親密そうに話しているからだろう。愉快そうに笑ってそう言うエルヴィンに向きなおると、思っていたよりもずっと近くにその顔が寄せられている事に気付く。遠くに見えるリヴァイの顔が不快そうに歪んでいるのが視界の端に映った。 「こんな事態にあって君たちは嫉妬し合っている」 でもそれも生きていればこそだよ、。エルヴィンはそう言って私から体を離した。 「これ以上からかったらあとであいつに殴られかねないな」 「嘘。あいつ、そういう奴じゃないでしょ」 「おや。なら、明日私の歯が欠けていても理由は尋ねないでほしいものだ」 「ねえ、冗談よね?」 「この後の君のご機嫌とり次第かな」 「……団長を歯抜けの英雄にしたくはありませんので。頑張ります」 「よろしく頼むよ」 10 追い詰める 眼の下、とエルヴィンが呟く。できるならば触れられたくないところだった。 「隈が出来ている」 「もう若くないもの。すこしはそういうのも出来るわ」 「無理をさせたかな?」 困ったように笑って、エルヴィンは手に持った書類を軽く左右に振った。先ほど私が手渡した書類。エルヴィンを失望させないだけのものを用意をしたくて、ここのところかなりの無理をした。出来るなら今すぐにでも横になりたい。そう思いながらも、私は首を横に振ってエルヴィンの言葉を否定してみせる。 「平気よ。無理してるのはあなたのほうじゃないの?」 案じるように尋ねるけれど、私が本当に心配しているのはエルヴィンの体調ではなくて、もっとほかの事なのかもしれない。たとえば私のこんな隈が原因で、前々からしていた今晩の約束を取り消されるのではないか、とか。なかった事にされるのなら、この人の口から聞くよりも、自分から言いだした方が傷つかなくて済むな、とか。言いだすなら、こうだろうか。 “いまはゆっくり休んだ方がいいんじゃない? ううん、私は平気だけど、あなたは忙しいから。また今度、もう少しゆっくり出来そうな時に改めましょう。いいの。そっちのほうが私も嬉しいから。” 他の場面では頭が回らないくせに、こういう先回りだけがうまくなって、いやになる。 「そうかもしれないな」 「なら、」 「だから、今晩。君と過ごすのを楽しみにしているよ」 「……だから?」 「疲れているからこそ、君と過ごしたい」 あまり根を詰め過ぎないように。今夜は一緒にゆっくり休む事にしよう。じゃあ、また。 いっそ眼を刺すような笑顔とともに、そう言い残してエルヴィンは去って行った。 エルヴィンの姿が完全に見えなくなったのを確認してから、壁に体をもたせかけてきつく眼をつむる。眼の下に触れたエルヴィンの指先。根を詰めるなと忠告してくれる柔らかい声。とても優しいのにひどく残酷で眩暈がする。だってあなたは、私があなたの期待に応えられなくなったら、私の事なんか簡単に忘れてしまうんじゃないの? 心配する言葉すら突き放されているように響く。やさしい振舞いだって見放されているみたいに思える。私からたまに仕事を取り上げてくれるのは、私の体調などを気遣ってくれているからだと、たぶん、解っている。だけど時々、ただこの人は私を見捨てたのではないかと不安でたまらない。期待をされればその重みに苦しむのに、期待が見えなくなると心臓の裏側を冷たい風が通り抜けるのだから私も勝手だ。 必要以上に走らなければ隣に立つ事すら出来ない。とっくの昔に捧げたこの心臓は、いったいいつまで持つのだろう。 あなたは言葉を惜しまないで、私の事を大切だと言うけれど。 たとえば私が役に立たなくなったその時、あなたは本当に、私の事を変わらずに愛してくれる? 11 生む 「ありがとう。」私がそう言うと、敦は本当に嫌そうな顔をした。「なにが」。尋ねる言葉は短くて声は不機嫌。だけど私は、その事にもひどく満足していた。 「ちんが欲しかったものは手に入ってねーじゃん」 敦はそう言う。試合が終わってから真っ直ぐに私のところに来てくれたんだろう、まだ少しだけ髪の毛の先が汗で濡れていた。クールダウンだって試合のうちだろうに、それでも私のところに来てくれた。 『全力を出して頑張っている敦が見たい。』 今年の私の誕生日に、欲しいものを聞かれてそう答えた。敦はその時も眉をしかめて、「それ以外で何かねーの」と言っていた。だけど、それからの敦はいつだって全力で試合をして、負けた事を悔しがっている。それだけでよかった。理由が私の為であっても、なくても、そんなことは構わない。 「なんでちんが泣いてんの」 状況的に泣くなら俺のほうでしょ、と敦が呆れたように口にしながら、首にさげていたタオルで私の涙をぬぐう。汗ふいたやつでしょ、と身をよじると、これしかないんだから我慢してよ、とぐいぐい私の目元をなぞる。ちょっと痛い。だけど、なすがままになっていた。「ちんに泣かれるの、俺、嫌なんだよね」と、本当に困り切ったように敦が言うから。 「悲しいんじゃないんだよ」 弁解するみたいに言う。「敦が優勝できなかったのが、嫌だってわけでもないよ」。嗚咽交じりで喉がひきつる。 「嬉しいんだよ、ほんと、嬉しいの。ありがとう。敦、ありがと」 ぐちゃぐちゃの声で必死になって言葉をつづる。いったいどれだけの想いが、こんなつたない言葉で伝わるんだろう。どのくらいの言葉があれば、私がいま思っている事を、ただしく敦に伝える事が出来るんだろう。 「解ったから」 敦の髪の毛の先から汗がぱたりと落ちた。長い腕が中途半端に持ちあがって、結局汗みずくの前髪をかきあげて降りていく。抱きしめたい、と思っていてくれたら、いいな。私がそう思っているように。 「解ったから、いい加減泣きやんでよ」 「うん、」 「来年は、こんなとこじゃ負けねーし」 「うん」 「絶対一番になって、今度こそ本気でちん泣かせてみせるし」 「……うん」 「だから今は泣かないでってば」 「泣かせてるの敦だってば!」 意味わかんねーし、と敦は言う。涙はまだ止まる気配を見せない。知らずのうちに交わされた来年の約束だってもちろん嬉しい。だけどそれ以上に、敦が一番になりたいと思って全力でプレーをするつもりがあるという事、その事の方が嬉しかった。ただまっすぐに生きるその姿だけで、どれだけ私の心が動かされるのか、敦はきっと考えた事もないんだろう。そしておそらく考えないからこそ、こんなにも私を、みんなを、すべてを震わせるのかもしれない。欲しかったものが手に入っていないと敦は言うけれど、これ以上の贈り物なんてそうそうありはしない。 あなたが生み出す歓喜だけが、私の心をとらえている。 12 後ろから抱き締める 今日こそ。今日こそ言うんだ。 「ねえ、エルヴィン」 「うん?」 笑顔に流されてはいけない。負けてはだめだ。どこかで一度しっかり言っておかなければ。付き合い始めるにあたって「我慢はしないでほしい、君は溜め込みやすいたちだから心配だよ」とエルヴィンは言っていたのだし。それに私はもうこれ以上、やさしいこの人に嘘をつきたくない。 「お土産とかでね、エルヴィン、いっつもこれ買ってきてくれるでしょう」 机の上に置かれたバウムクーヘンの箱をさしながらそう言うと、エルヴィンは少し首をかしげた。だって君の好きなものだろう? と言葉にするかわりに。確かにエルヴィンと知り合った頃、私はバウムクーヘンがとても好きで、いつかのデートの時にぽつりとそんなことを言ったものだった。 「私、世界で一番バウムクーヘンが好きかもしれない」 「おや? それは聞き捨てならない」 「……食べ物の中で、一番、好き」 なんて甘やかで幸福な会話だろう! 私にとってはただの雑談だったが、しかしそれからというもの、エルヴィンは事あるごとにバウムクーヘンを私に贈ってくれるようになった。出先で見かけるたびに、記念日に、あるいは喧嘩した次の日なんかに。最初はエルヴィンのそのやさしさを純粋に喜んだものだったが、贈られたバウムクーヘンの数が20をこえた頃、私は悩むようになっていた。 「とっても言い出しにくいんだけど、その、」 「――ああ。もうあまり、好きではない?」 「ええと、そうね、うん、そういう事になるのかな」 はっきりと言えずに曖昧な答えを返すと、エルヴィンはおかしそうに笑った。 「ごめんなさい、ええと、気持ちはすっごく嬉しいの。本当よ。」 「解っているよ」 と言うより。エルヴィンはそう告げて一度言葉を切った。前触れもなく背中に温もりと微かな重みが伝わる。抱きしめるエルヴィンの香水、砂糖と卵の甘い匂い、そんなものが少しだけ混ざった部屋。 「知ってたんだ」 「何を?」 「君がずいぶん前からバウムクーヘンに興味を失くしていた事を」 「え?」 「うん」 エルヴィンは甘えるこどもみたいに頭を押しつけながら話す。そんなかわいらしい仕草をしても流されてやらない。だっていまこの人、何て言った? 「解ってはいたんだが、つい、ね」 「どうして」 「きみのやさしさが嬉しくて」 私を傷つけないように、嬉しそうにふるまってくれる。すこしだけ驚いたような顔をして、だけどすぐに笑顔を見せてくれる。君には無理をさせたようだけど、私にはそれがとても嬉しかったんだよ。 エルヴィンはそう囁いて私の耳元にくちびるを寄せる。からだをよじってエルヴィンの顔を見ると、本当にしあわせそうに眼を緩めているものだから、なんだか怒る気も失せてしまった。だいたいが、論理的な男なのだ。その男をこんなにも馬鹿な行為に走らせた理由が自分の言葉にあるのなら、まあそれも、悪くないんじゃないだろうか。 「……これっきりにしてね?」 「次からは君の喜ぶものを選ぶよ」 「信じてるわ」 「うん。ところで、」 なあに。尋ねると今度は鼻先にくちびるが降りてくる。触れるだけで離れていくエルヴィンの口元が嫌なかたちに持ちあがった。 「いまの君の中では、何が世界で一番好きなものになるのかな?」 ……まさかこの男、はじめからそのつもりで? 13 手を伸ばす 「おはよう、小堀くん」 「おはよう」 、早いな。通学路の途中でばったり出会った小堀くんは、そう言ってやわらかくほほ笑んだ。私はその笑顔を真正面から見ていられなくて、不自然じゃないように眼を逸らしながら、「そうかな」とだけ返した。そしてすぐに、後悔。そうかな、って何だ! もっとかわいい、いや、かわいくなくても、もう少し愛想のいい言葉があるだろうに! 他の人が相手だったらどんな言葉だって返せるのに、小堀くんの前でだけ、私はうまくしゃべることができない。 嫌われたくない、好かれたい。彼女になりたいとまでは言わないけど、どうか好印象のままで終わりたい。気付けばもうすぐに卒業で、私はこの3年間ばかみたいに小堀くんが好きで、好きすぎて、何もできないままにさよならをしようとしている。たぶん、普通に話かけてもくれるし、こうして会えば笑いかけてもくれるのだから、嫌われてはいない、と思いたい。何も特別なことがなくていい。ただ、小堀くんがこれから大学に入ったり、大人になったその時。高校時代のことを思い出して、万が一私の事が記憶の端に残っていたなら、その記憶がいいものであってほしい。それ以上は望まないから。 「、いつもこの時間に家出てるの?」 「うん。部活の朝練も終わっちゃったし、もうだいたいこの時間かなあ」 「そっか。、吹奏楽部だったもんな。」 「えっ」 「あれ? ごめん、違った?」 「え、ううん、合ってる。びっくりしただけ」 「びっくり?」 「だってわたし吹奏楽部だなんて小堀くんに言ったっけ?」 ああ、そういうことか。小堀くんはまたかすかに笑う。まぶしくて見ていられないからやめてほしい、けど、小堀くんが笑うとちょっと嬉しいからもっと見せてほしい、とも思う。そう思っていることがどうかばれていませんように。 「気になってるやつの事だから」 「……え」 「うん」 「あ、ああ、私いっつもあれだもんね、ロッカーの上に楽器置いてたし、それは気になるよね、ごめんあれいっつも邪魔だったよね」 そうやって早口でまくしたてながら、私は内心で小堀くんに向かって八つ当たりのような言葉を投げつけていた。なんなの、なんなの、なんなの! 誤解してしまうような事を言わないで! 顔は赤くなってないだろうか、ちゃんと歩けているだろうか。「でももう持って帰るから!」とダメ押しのように言葉を続けて、なんとかさきほどの言葉を忘れようとした。だってあんなの、ずるい。私がどんな気持ちで並んで歩いているかも知らないで、あんな言葉一つで私の心をひっかきまわして、小堀くんはずるい。ちくしょう、ととても聞かせられないような言葉を唱えていると、すこしだけ張りつめた声で、小堀くんが私の名前を呼んだ。 「」 「は、はい?」 「まだ時間あるし、ちょっと立ち止まってもらってもいい?」 小堀くんはそう言って歩みを止めた。言葉に従って私も立ち止まり、顔を上に上げて小堀くんの顔を伺う。小堀くんはやけに真剣な瞳で私を見ていて、私の胸は痛いほどに鳴っている。期待しないように、と言い聞かせるのに、心臓がうるさい。小堀くんがこれから言おうとしている言葉なんてちっとも解らないのに。何て事のない雑談かもしれないのに、先ほどの言葉と合わせて、もしかしたらを考えてしまう。立ち止まってからどれぐらい時間が経っただろう。これ以上緊張していたら死ぬかもしれない、そう思って、やけに渇くくちびるで「小堀くん」とだけ呼びかけた。 「俺、試合と同じぐらい緊張してるかも」 小堀くんはそう言って笑った。その笑顔がすこしだけこわばっているのに気付く。大きく息を吸って、小堀くんが口を開く。続く小堀くんの言葉に、どうにかして「私も」と返すと、小堀くんは本当に安堵したように笑った。 14 ──越しに触れる やられた。完璧に、してやられた。 テレビの画面をぼんやりと眺めながら、私はずっと「信じられない」「うそでしょ」「なにこの人」の3つの言葉を繰り返していた。ソファに沈み込んで頬に手を当てる。「信じられない」。もう一度呟く。テレビでは先ほどの試合のハイライトが流れ、実況と解説の人が内容について興奮した口調で語っていた。 「今日の青峰選手は……、その、何と言いますか、キレがありましたねえ」 「そうですね。いつもすばらしい選手ですか、今日は何かこう……また貫禄があったというか」 「まさにアンストッパブルというか」 「そうですねえ……ちょっと、こういう事をされると、相手としてはなすすべがないですね」 テレビから笑い交じりに言葉が届く。いつもならば誇らしい賛辞なのに、今日だけはひどく恥かしい。 「まあその原因もね、すごい理由ですよね」 「いや、あの理由でこんな試合運びをされたら、たまったものじゃないですよね」 そうでしょう、そうだと思います。私は依然として両手で顔を覆ったまま呟いた。本当にその通り、なんてすごくて、なんて規格外な男だろう! 「えー、青峰選手の試合後のインタビューでの発言ですね、繰り返します」 繰り返すの?! 「なんでも今日は奥様の誕生日だったそうで。絶対に勝ちたかったし活躍したかった、との事です」 「すごいですよね。奥様のために、NBAでここまでの試合ができるっていうのも非凡ですよね」 うう、とうめいてさらにソファに沈む。隣で一緒に試合を見ていた黒子くんがぽつりと「きみの旦那さんもすごい人ですね」とからかって言うのに、「もうやめて…」と切れ切れの声で返した。 「会えないからってテレビ越しにこんな事を」 「ほんとにね……いや昔からやることなす事むちゃくちゃだったけど、まさかこんな……」 「おめでとうございます、青峰夫人」 「ありがとうございます……」 テレビでは番組のエンディングテーマと共に、大輝のプレイと最後のインタビューで見せた笑顔が流れていた。満面の笑みと共に腕を空に突き上げる、その姿はしかし、誰も及ばないほどに格好よく映っていた。 15 撃ち抜く 昔に私がした事を思うと、今こうしているのは本当にありえない奇跡だと思う。きっと隣で一緒にアルバムを眺めているこの男も同じ事を思っているんだろう。その証拠に、口元が楽しそうに持ち上がっている。 「うっわ、この写真懐かし。まだ高校入ったばっかの時の?」 「5月ぐらい? まだあんまり和成と緑間くんも仲良くなかった頃だよ」 「こんぐらいの時にさ」 和成はおかしそうに笑いながら口を開く。やっぱり同じ事を思い出していたらしい。私としては恥ずかしいし情けないので結構記憶から消し去りたい過去なんだけれど、和成が楽しそうなので黙って聞いた。 「俺、のアドレス聞いたじゃん? さんアドレス教えて〜つって言ったら」 「……“え、高尾くんと? 交換する必要性を感じない”」 「それそれ!」 和成は耐えられないと言うように噴き出した。「ひっでえよな」と笑いながら昔の私を詰る。 「必要性を感じないって、そりゃ確かにそうだけど! あれめっちゃ笑ったなー」 「だってあの時はこんな事になるとは思ってもなかったし……もう忘れてよ」 「むりむり。超インパクトあったもん。4月いっぱい使って緑間で耐性つけてなかったら心折れてたわ」 「それはまた……」 「いま俺たちがこうしてられるのも、真ちゃんサマサマ。運命なのだよ、ってね」 わざとらしいウインクを無視して私はページをめくる。制服が夏服に変わる頃には緑間くんと和成は距離を詰めていたし、私も結局アドレスを交換していた。心が折れる折れないという問題以前に、よくもこんな人間と関わろうと思ったものだ。第一印象は最悪どころの話じゃない。それから先敬遠されてもおかしくないような言動だったのに、和成はいつの間にか傍にいて、いつの間にか特別になってしまった。 「ほんと、あの時和成の心が折れなくて、よかった」 いまこうして一緒にいられて、よかった。 写真を見ながらつぶやくと、いつもうるさい男が何も言わない。怪訝に思って横をちらと見ると、和成は真っ赤な顔を大きなてのひらで覆い隠していた。それから消え入りそうな声でぽつり、「俺もです……」となぜか敬語で答える。その姿に私は声をあげて笑った。出会った時から変わらず、和成は不意打ちに弱い。よかったなんて言葉じゃ言い表せない、と付け足したら、今度はどんな姿を見せるだろう。調子を取り戻した和成の返り討ちにあうかもしれないし、その本音はまだ、隠しておくべきだろう。 16 共犯、共謀 私は昔にこの男に告白をしてふられている。1年ほど前の事だ。ことばも雰囲気も何もかもが簡単なままに終わってしまった恋。だからいまだに、あれは夢だったんじゃないか、あるいは自分の妄想に過ぎないんじゃないか、と思う事がある。もちろん実際にはそんな事はなくて、私はちゃんと木吉に告白をしているし、木吉は私を振っている。前後の会話なんてもうすっかり忘れてしまったが、何かの流れで好きな人の有無の話になり、私はこの機会を逃すわけにはいかないと意気込んで答えたのだ。「私はいるよ」。木吉はにこにこ笑っていた。「そうだよな」といつもみたいに見透かした眼をしていたから、もうとっくにばれているんだろうな、と思った。だけど木吉はどこまでも木吉だった。その当時のクラスメイトの名前をぽんぽんと上げる木吉に対し、私は、「違う」「いやその人でもない」「……わたし彼と話したことないけど」などと律儀に答えた。最後は「じゃあ、誰だ?」とばかみたいな顔をして言う木吉に、「ていうか私の好きな人って木吉なんだけど!」と、半ば怒鳴るようにして告白した。「俺だったのか」。木吉は心底驚いたようにそう言うと、動物みたいな瞳を丸くして笑った。笑って、ただ一言。「ごめんな」。それだけだった。 「? なに難しい顔してるんだ?」 「んー? 木吉に振られた時の事を思い出してた」 意地悪くそう返すと、木吉はすこしだけ眉を下げてまた笑った。「はよくそれを思い出してるなあ」とのんきに言う。相手が木吉じゃなかったらぶん殴っているところだけれど、木吉だから仕方ないな、という諦めの境地。 「もう部活終わった? 帰る?」 「おう」 「送ってって」 「もちろん」 私は木吉に振られているし、木吉は私を振っている。だけど不思議と私たちの関係は続いていて、こうして木吉の部活終わりになんやかんやと理由をつけて送ってもらう事もある。木吉は私がほかの男の子と遊ぶと、理不尽にもすこし不機嫌になる。べつに私は木吉のものでもなんでもないのに。そして木吉だって、決して私のものになってはくれないのに。ふざけて指を絡めてみたり、じゃれて肩を叩いたり、まるで本物の恋人同士みたいに待ち合わせて帰ったり。付き合ってもいないのに、離れるだけの理由がないから、こんな事を続けてしまう。木吉が残酷なのか、私が馬鹿なのか、今はまだ解らない。 あるいは私は木吉のなけなしの罪悪感に付け込んでいるのかもしれないし、木吉は都合よく私を利用しているのかもしれない。理由なく甘えたい時のために、人さびしい時に、慰めてほしい時に。たとえばこれが少女漫画なら、私はいつの間にか木吉にとってなくてはならない存在になっていて、特別になれる。傍にいるのが当たり前で気付かなかったけれど、私がいなくちゃ駄目なんだ、とかなんとか。そんな甘い言葉と共にふたりは幸せになる。ハッピリーエバーアフター。だけどそれは夢物語だ。実際のところは、あのあっけらかんとした笑顔で、「今までありがとな」。そのぐらいが、せいぜいだろう。 それでも構わない。 17 前世からの付き合い 呼びとめられて振り返り、ミカサは瞬時に後悔をする。こういう眼をしている人間は大概がいい話を持ってこない。どれほどとろけるような眼差しをしていようとも、甘い声で名前を呼ばれようとも、だ。美しいほどにおどろおどろしさが増す。ミカサはもう随分と昔に忘れたはずの感情を思い出していた。 この人を見ると、背筋が凍る。 「ミカサ、あなたに怪我がなくて本当によかった」 私、あなたのことをとても気に入っているのよ。 彼女はやさしく囁いてそっと私の頬に指を滑らせる。あたたかい指先、少し伸びた爪、ふり払いたいけれど体がうまく動かない。 「だって私とあなたってよく似ているもの」 ぞっとするような笑い方をする。彼女の言葉の通りなら、この笑顔を私も持っているのだろうか。 「私ね、リヴァイがこの世で何よりも大切なの。世界の真理なんかどうだっていいの、私の命だっていらないわ、あの人だけがいればいい」 ねえ、ミカサ、あなたなら解るでしょう? 頬に添えられた爪が少しだけ食い込む。短く切りそろえられているからそうは痛まないけれど、肌の下がちりちりとざわめくのをミカサは感じていた。 「それ以外のものなんか、私、どうなったって構わないのよ」 そして、突然の、抱擁。 傍からは抱きしめられているように見えるだろう。だけどこれは抱擁なんかじゃない。動物が、獲物を捕まえていたぶるのに似ている。私をその華奢な腕に囲い込んだまま、彼女は砂糖菓子のように甘い声で私の名前を呼んだ。 「ねえ、ミカサ? あなた、エレンが他の女を庇って怪我をしたら、その女を許せる?」 歌うように言葉を続けるのに耳を奪われる。逃げだしたいと思うのに動けない。蛇のように細い腕がぎりぎりと私の呼吸を締め上げていく。ほとんど吐息まじりの声で彼女が囁く、 「殺してやりたい、って思うんじゃないかしら?」 ――少なくとも私はいま、そう思っていてよ。 18 サイン 土曜日の出勤、お昼少し前。「さん、今のうちに休憩出たら?」という同僚の言葉に「いえ、私まだお腹空いてないので。よかったら先に出ちゃって下さい」なんて見え透いた嘘をつく。嬉しそうに先に休憩に出る同僚の背中を見送りながら、時計をもう一度確認して、それから出入り口に視線をやる。今日はもしかしたら来ないのかもしれない。 制服を着ているから高校生で、ちらっと見た部活用のかばんにはバスケットボールの文字が入っていた。あの身長ならまあ、と変に納得したのはつい最近のこと。土曜日のお昼前にふらっと来て、雑誌を買って帰っていく。ポイントカードを差し出して。私が彼について知っているのはそれぐらいで、その時点で、ちょっとわたし気持ち悪いな、という自覚はある。 好きとかそういうのではない、んだと思う。だって相手は高校生。「いらっしゃいませ」「ポイントカードはお持ちですか」「またどうぞお越し下さいませ」以外に話した事もない。ただ、ちょっと礼儀正しくて、たまに使う敬語が不慣れで、いいな、と思っているだけ。その“いいな”にしても、こんな感じの弟が欲しかったなあ、というのが一番近いと思う。だから、好きとかじゃない。いわゆる、お気に入りのお客様、なのだ。 扉が開く音。いらっしゃいませ、と声をかけて出入り口に目を走らせると、その彼がまさに入ってくるところだった。あれだけ身長があれば私とは違う世界が見えているんだろうなあ、とぼんやり思う。他のものには目もくれず、昨日発売されたバスケットの雑誌を手にとって真っ直ぐにレジに来る。いらっしゃいませ、ともう一度声をかけたけれど、私のひとつ前のレジも空いている。隣のレジで彼が「ポイントカード、ある、です」といつもの口調でポイントカードを差し出すのを横目に眺めながら、ぼんやりと備品の補充をする。隣でバイトの女の子が「ありがとうございましたー」と送りだすのに合わせて、私も同じ言葉を繰り返す。別に、私がレジを打てなくて残念とかそういうのもない。でも、私が立つレジの前を通り過ぎる時、彼がちらと私のほうを見て、少し会釈をするから。私はそれが嬉しくて、満面の笑顔で彼を見送ってしまうのだ。 あの仕草。背が高いからいまいち会釈に見えないそれ。彼のあの姿を思い出せば、今日はどんな無理難題を言われたって笑顔で対応できるだろう。私にとって彼は、たとえば街中で会う猫みたいなものなのかもしれない。かわいくて、なついてくれたら嬉しくて、だけどそれだけ。きっとそうなんだろう。 それから先の答えはまだ、先送りにしていよう。 19 抱き合う 「あなたにあげられるもの、何もないわ」 「うん」 「私が唯一持っていたものを、あなた、簡単に奪っていくんだもの」 「ごめんね」 「返してはくれないのね」 「返せないからね」 「ひどいわ」 「そうだね」 「ねえ」 「うん」 「私、何にも持ってないのよ。もう何にもないの。解ってるでしょう?」 「そうだね。俺が一番よく、知ってるよ」 「なら、どうして」 「どうして?」 「どうして私に会いに来たの」 「さあ」 「あなたは私からなにもかも奪って行くのね」 「それは仕方ない。だってオレは盗賊だよ?」 「開き直るみたいにして言わないで」 「開き直っているつもりはないけど。そこだけは、どうしたって変えられないから」 「そう」 「うん」 「……私、まだ、答えを聞いていないけれど?」 「どうして君に会いに来たか」 「ええ」 「会えば解るかもしれない、と思った。だから会いに来た。でも、解らなかった」 「……そう」 「触れたいと思った。だから君に触れてみた。もっと触りたい、と思った。だから抱きしめた」 「それは、私が知りたい理由じゃなくて、ただの過程だわ」 「うん」 「まだ、解らない?」 「そうだね。オレはどうして、何も持ってない君に、もう一度会いたいと思ったんだろう?」 「どうしてかしらね」 「もしかしたら次は、君に口づけたいと思うのかなあ」 「知らないわ」 「オレがもしそうしたいと思ったなら、君は許してくれる?」 「おかしなことを聞くのね」 「そうかな」 「盗賊が許しを請うの?」 「その通り。では遠慮なく。」 20 シーツにくるまる 夜半。突然現れた李牧を見ても、は表情ひとつ変えなかった。 「こんばんは、李牧殿」 また何か悪巧みをなさっているとか。姿を見られたら、大変なのではありませんか? 笑み交じりにそう尋ねる彼女は、今までに何度か会ったときと同じように無邪気で、かえって李牧の心はざわめいた。この娘が知らないわけがない。いま、自分の身に、自分の国に、どのような危機が迫っているかを知っていて、このように笑う。その屈託のなさを愛おしいと思っていたけれど、この状況にあってはいっそ憎らしい。 一言でも不安なそぶりを見せたなら、すぐにでも攫っていけたのに。 「そうまで知っていて、なぜ、逃げないのですか」 「どこへ逃げても同じではありませんか」 秦が滅んだからといって平和が訪れるはずもない。どこへ行ったって繰り返されるのですから。 「……あなたを、連れ去りたいと思っていました。そのために今日、ここに来た」 「それはそれは。無駄足を踏ませてしまったようですね」 「あなたが見た目に反して頑固で、――愚かだということを、忘れていた」 「愚か」 「助かる道があるのに選ばないなど、私から言わせれば愚の骨頂です」 あなたは最後までその下らない甘えに包まっていればいい。 告げて、背を向ける。今一度この女の顔を見たら、何をするか、何を言うか、李牧自身にも解らなかった。 「李牧殿」 涼やかな声が李牧を呼び止める。しばらくためらってから、絞り出すようにが言う。 「目先の幸せにすぎなくても、私はただ、あなたと一緒にいたかった」 言葉はまるで甘露のように李牧の中を通り抜けて行く。李牧はそう遠くないうちに、この声を、この女を、殺すのだ。どれだけ高尚な理想を掲げ、遥か先を見ているつもりでも、結局は。李牧が成そうとしているのが、ひとつの死を積み重ねた先にある平穏である以上、その事実からは逃れられない。 「先の平和や安寧などを忘れて、ただこのひと時、あなたのそばで眠りたかった」 「」 「あなたにとっては、愚かであっても。」 李牧は握りしめたこぶしに力を込めた。選べるものならば李牧とて、の言う幸せに縋っていたかった。ただ抱き締めて眠り、明日の話をし、自分たちが死ぬまでどうにかして仮初の平和を保つことはきっと難しくはない。けれど、李牧はそれを選べない。が李牧の手を取って、ここから逃げ出してはくれないのと同じように。 「さようなら、李牧殿。あなたの思惑通りに事が運んだならば、もう二度と、生きて会うことはありますまい」 「……そうですね。あなたのように美しい女人を、荒れた兵が逃がすとも思えない」 そう告げると、はくすりと笑って言う。「残酷なことを」。それを引き起こすのは、他でもないこの李牧なのだと言うように。 「……さようなら、殿」 李牧はゆっくりと歩き出した。すべてが目論見通りに進んだならば、その時、李牧が愛したものは永遠に失われる。大切なものを投げ捨ててまで李牧が掴み取りたいものとは何か、李牧はただ、考え続けていた。 21 殺す 黄瀬くんの恋人の話は、彼と親しい人間であれば誰もが知っている。黄瀬くんはその恋人のことが大切でたまらなくて好きで仕方ないから、誰かれ構わずその魅力を伝え、最後に必ず言うのだ。 「ね、かわいいッスよね」 いっそ憎たらしい程の笑顔と共に。 恋人との関係について尋ねても、答えはいつだって同じ。いつだってふたりはうまくいっていて、いつも黄瀬くんは嬉しそうに話す。この前あんな事をした、この前見せたこんな仕草にぐっときた。恋人のことを語る時の黄瀬くんは、本当にまぶしい表情をしている。 「ちゃんが聞いてくれて俺ホント嬉しいッス、みんなまじめに聞いてくれないんスもん」 にこにこ笑って恋人の事を話す黄瀬くん。 「お返しってわけじゃないけど、ちゃんに恋人が出来たら、いつでものろけていいッスからね!」 黄瀬くんはそう言って今日も私の隣に腰かけて恋人について話すのだ。私がどんな気持ちでいるのかも知らないで、……あるいは、知っていて。 自分からあえて傷をつくるようにして、今日も私は尋ねる。 「ねえ、最近、恋人とはどう?」 答える黄瀬くんの笑顔、すこし弾んだ声、今日も黄瀬くんの恋人はかわいくて、彼らはうまくいっている。どんな話でもいいから誰も知らない黄瀬くんを知りたくて、どんな内容でもいいから話すきっかけが欲しくって、 そうやって、ただ、少しずつ喉を絞めるようにしてこの恋を終わらせたいんだ。 22 ラインを辿る どんな些細なものでもいいからきっかけが欲しくて、繋がってみたくて、そんな自分を馬鹿だなあと思う。たとえば私がどれだけバスケットに詳しくなったって意味がないし、彼には届かないのに。馬鹿だなあ。そう思いながらも私はまた、スポーツニュースでバスケットの話題を追いかけて、最近の試合の結果なんかを気にしたりしてる。本屋で雑誌の立ち読みをしては、「あ、この人この前ニュースで見た名前だ」とか、本当に薄っぺらな知識をつけて。そんな事をしているぐらいなら、どうやったら彼と話せるようになるか、それを考えたほうがよほど建設的だと解ってはいるんだけど。その勇気もない私は今日もまた、彼がどの選手を好きなのかも知らないのに、雑誌を適当にあさって選手の名前を一人覚えては満足してる。ほんと、馬鹿だ。 「?」 「え?」 「やっぱり」 私は振り返って、言葉をなくす。渇くくちびるをどうにか動かして「伊月くん」と呼びかけると、伊月くんは整った顔立ちをすこし緩ませた。それから、私が立ち読みしていた雑誌の中身をちらと見て口を開く。 「、バスケ好きなの?」 「いや、えーと、その、ね?」 「うん?」 伊月くんは面白そうに笑いながら私の言葉を待つ。何も言葉が出てこなかった。きっと急に陸地に上げられた魚だってこんなに呼吸に苦しまないだろう。だって、伊月くんが目の前にいて、私に話しかけて、私の言葉を待っている? 白昼夢じゃないだろうか。頬をつねって確認してみたかったけれど、もちろんそんな奇行に走れるわけもない。間を繋ぐためだけの言葉をとりあえず出して、ああ、それから、何を言えばいいんだろう。 「その、ですね」 「うん」 「勉強中、というか……。バスケ部のみんな、頑張ってるから、それで、興味が」 まったく的外れでもないけれど、微妙に正解からもはずれた言葉に、心の中で自分を殴りつける。だけど正直に言えるわけもない、「伊月くんの事が好きだから、君の好きなものについて詳しくなりたかったんです」なんて。そんなこと、口が裂けても言えない。よこしまな動機など何も知らず、顔をぱっと輝かせている伊月くんを見てしまったら、言えるわけがない。 「そっか。なんかそれ、嬉しいな」 胸が痛くなるような笑顔だった。罪悪感に駆られて言葉を付け足す。 「いやホント、ほんとうに最近興味を持ち始めたばっかりだから、何にも知らないし、全然解ってないんだけど」 「最初っから全部解ってるやつなんかいないよ」 伊月くんの言葉はどこまでも透明で、やさしくて、こんな時なのに実感する。私ほんとこの人の事が好きなんだ、って改めて知らされる。伊月くんはただ、バスケが好きになってもらえたことが嬉しくて、それに喜んでいるだけなのに。少しだけ距離を縮められたような、そんな勘違いをしてしまって、苦しい。 「俺たちがきっかけでバスケに興味持ってもらえるって、すごい嬉しい。ありがとな」 伊月くんはいま、バスケットしか見てない。期待は抱くだけ無駄だって解っている。こうして会話が出来るだけでも奇跡みたいなものだった。その会話にしたって引き際をわきまえなければならない。 「ごめんね、伊月くんも雑誌見に来たんだよね。私もう退くから」 「あ、」 「うん?」 「ウィンターカップ、12月にある大会なんだけど。もし出れたら……っていうか、出るつもりなんだけど」 そこで伊月くんは恥かしそうに笑った。伊月くんにとっては出場は夢じゃなくて、単なる目標で、通過点にしか過ぎないんだ、と思って私もつられて笑う。 「うん。こんな事、軽々しく私が言っていいのか解らないけど、出れるよ。信じてる。」 「ありがと。で、出場したらさ。会場が都内なんだ。さえよかったら、見に来てよ」 NBAに比べたら面白くないとは思うけど、みんな必死で、きっと面白いから。そう言って、伊月くんはもう一度笑う。端正な笑顔。私はそれを眺めながら、もう一度思った。やっぱりこれ、白昼夢だよ。夢だ。都合が良すぎる。いや、いやいや。何を期待しているんだ。ただ大会に誘われただけじゃん。告白されたわけでもないじゃん。いや、でも! 内心の興奮をどうにか押し隠して答えたが、声は見事に裏返った。 「いいの?」 「もちろん」 「ありがとう。絶対行く。絶対行く、から、絶対出てね」 前のめりの勢いでそう口にすると、伊月くんは笑顔のままで力強く頷いた。 「頑張るよ」 「頑張ってね、じゃあ、私行くね」 「引きとめてごめん。気をつけてな」 「ありがと。伊月くんもね」 そう言って背を向けて不自然じゃない速度で本屋を出て、そこからは、全速力で帰り道を駆け抜けた。顔が熱い、きっと赤い、息が苦しい、だけど止まれない。 何にもない。解っている。意味なんかない、解ってる、だけど、だけど! 期待するな、なんて言い聞かせても無駄で、胸は高鳴るし、頬は熱いし、私はやっぱり伊月くんが好きだ。好きなんだ。どうしようも出来ない。伊月くんにとってはなんてことのない一言で、私以外の誰にだって気軽に言える言葉なんだろう。それでもこの一言を胸に大切にしまっておきたかった。胸の奥深くに宝物のように沈めて永遠に綺麗なままで取っておきたい。それぐらいの言葉をくれたんだって、伊月くんは解ってない。 期待して、舞い上がって、勝手に落ち込んで、走った先に何もない事を誰よりもよく解ってる。 それでも、もう止まれないのだ。 23 騙す あの人は煙草を吸わない。あの人に弟はいない。あの人は金髪じゃない。あの人はこんなに背が高くない。あの人はいつもスーツを着ているからバーテン服なんて着ない。あの人はこんな風に私を抱きしめたりしない。あの人は私の名前を呼んだりしない。あの人は私の事を見ない、愛さない、求めない、絶対に。 あの人は池袋にはいない。あの人は借金の取り立てだってしない。あの人はガードレールを持ち上げたりしない。あの人の携帯電話はこんな色じゃない。あの人の指はもっと細い。あの人はもっと華奢だ。あの人は、あの人は、あの人は。 考えれば考えるほどに違いしかないのに私は今日もこの男の隣にいる。この男の隣に立って言う。「好きだよ」「愛してるよ」「私の事好き?」この男はその言葉のそれぞれに答える、あの人とは違う事を言う、だってあの人は私を好きだとも愛しているとも言わないしこんなふうに抱いたりしない。匂いも体格も考えも何もかもが違う。 代替で始めた関係だ。だけどこうして違いをあげていって、その数に呆れているうせにその腕の中にいたいと願う瞬間、私は勘違いをする。もしかしたら自分はこの男の事を愛しているんじゃないか。もしかしたら前にした恋などすでに遠く消えて、私はこの男と何かを始めたいと思っているのではないか、と。 もちろんそんな事はありえない。だってこの男とあの人は違う。 私は、この男のことを愛してなどいない。 私はきっと、この男のことを愛してなどいない。 きっと。 24 忠誠を誓う 辰也は瞳の端を少しだけ下げて私の名前を呼んだ。そうやって呼びかける声がどこまでもやさしいことに絶望する。辰也はいつもそうだ。いつも、だだっ子を宥めるみたいな声で私を呼ぶ。は悪くないよ、とでもいう風に。 「もうこんな事はやめたらどうだい」 が苦しいだけだろう? そう言って辰也は今日も私を甘やかす。とってもひどい事をしているのは私なのに、悪いのは相手であるかのように。 私にはずっと片思いをしている相手がいるが、誰の目から見てもその恋が実る日がこない事は明らかだった。もちろん私だって馬鹿じゃないからその事を十分に知っている。だから、今日も気まぐれに誰かれ構わず愛を囁くのだ。ほんの少しの気晴らしと、自分にまったく魅力がないわけじゃないんだって事が確認したくて、そんな事をする。 そんな事を繰り返していれば問題に巻き込まれる事だってそう少なくはない。だから私はややこしい事が発生するたび、いつも辰也の助けを借りる。辰也を引き合いに出せばだれもが引きさがってくれるし、引きさがらなければ辰也が問答無用で黙らせてくれるから。 問題を処理した後、辰也はいつも同じ言葉を繰り返す。「もうこんな事はやめたらいいのに」とか、「は十分魅力的だし、もっといい相手が見つかるさ」とか。私がその言葉を聞き入れた事はないけれど。 だって、どうしたって私が好きな相手は振り向いてくれなくて、私だってその事は解っているけどどうしようも出来ない。いつの間にか始まっていた恋をどうやって終わらせたらいいのかが解らない。そもそも、終わりなんて存在するんだろうか。こんなにも好きなのに、こんなにも苦しいのに、どうしたって消えないのに。 誰かがほめそやしてくれたところで、一番好きな人が振り向いてくれないのなら価値がない。世界中の人間が私の事を美しいと言ってくれても、その人が私に魅力を感じてくれなければ、私は世界で一番みじめだ。 ――辰也だって、そのことを、誰よりもよくわかっているくせに。 「そうやって誰かで確認しなくたって、は綺麗だし、誰もが恋に落ちるよ」 「そう言うけど、辰也だって私の事をそういう対象に見た事がない癖に」 こどもみたいな反論。辰也は苦く笑った。「見れない事はないけど」。 「見たとして、困るのはだろ」 「困る?」 「こうして問題を解決してくれる男を一人失うかもしれない」 「ああ、そうね、それはとても困る」 私は呟く。辰也は笑っていた。 「オレはを困らせるより、に困らされたいんだよ」 「どうして?」 純粋な疑問だ。どうしてそこまでしてくれるの? 尋ねると辰也は笑った。 「が好きだから」 そう。私はそれだけ返した。意味を糺したら、もうこのままではいられないような気がしていた。 25 腕を組む 「Good morning Sweetie」 ひさしぶりに目を覚ますとやたらに甘い言葉が耳に飛び込んで来た。言葉に似合わない、地を這うような低い声と、見なくてもわかる鋭い眼光。最悪、とうめく代わりにどうにかしてふさわしい言葉を選ぶ。 「good morning , darling」 やたらとかすれた言葉は、しかしちゃんと届いたらしい。この男の神経をさらに逆なでしたようで空気がさらに張り詰める。せっかくの目覚めなのだからもう少し気持ちよく迎えたかった、と内心でぼやく。口にしたらもう一度眠りに戻されそうだから、間違っても滑らせるようなまねはしないけれど。 「水だ」 ありがとう。そう答えたつもりだったけれど、言葉にならなかった。自分が考えているよりも長く眠っていたらしい。喉が張り付いているような気がする。 「てめえの体調が万全なら蹴り倒してるところだ」 「うん」 「何で俺を庇うような真似をした?」 「えー、っと」 必ず聞かれると解っていたが、できれば容赦してほしかった。間違いなく罵倒される。 「おまけにお前はしくじった」 ベッドの横に置いてある椅子に腰かけて、腕と足を組み、私を見下ろしながらリヴァイは言葉を続ける。 「ヘマをして3日も寝込みやがって。お前のおかげでぴんぴんしている俺が、その間にどれだけクソ面倒な事に巻き込まれたか話してやろうか?」 「あー……」 「悪いと思ってんのなら、理由を話せ。俺が納得するようなやつをな」 「誰かを守りたいって思うのに理由が必要?」 「わけもなく無差別に守りてえなんてクソみたいな事を思うんなら、そいつはただの死にたがりだ」 違いない。適当な理屈で逃げられたらと甘い事を考えた私が馬鹿だった。こうなったらリヴァイは私が理由を話すまで譲らない。 「リヴァイが怪我をして3日離脱するより、も。私が3日離脱するほうが、被害は少ないと思った」 答えるとリヴァイは鼻で笑って私の言葉を一蹴した。私が寝込んでいなければ本気で蹴られていただろうと思う。 「お前でも、俺でも。何も変わりゃしねえ」 長い眼で見たらそうなのかもしれない。誰が死んでも、最後に勝利を収めることが出来るなら。だけど今の調査兵団にとってリヴァイの離脱は致命的だ。ならば、と思った。だけどその理屈を思いついたのは痛みに襲われた後で、思わずリヴァイの前に飛び出した時はとてもそんな事を思う余裕などなかった。答えはもっと単純で、私はこの男に死んでほしくなかったのだ。怪我をして寝込んだリヴァイをただ見ているなど、その目覚めを待って不安な日々を過ごすなど、耐えられそうになかった。 それはこの男にしたって同じだと、知っていたけれど。 視界の端にちらと見えた部屋は、壁外調査に出る前より随分と綺麗になっていた。何より、忙しいはずのこの男が、私が目覚める時まで寝台の横に椅子を据えて腰を待っていたという事。いつかに冗談で話したおはようの挨拶。この男は私が眠っている間に、何を考え、何を想像したことだろう。だけど、悪い事をしたと思っていないから、どうしたって謝れない。 私は何度だって同じことをする。 「リヴァイ」 名前を呼ぶ。足も腕も組まれたまま目線だけでリヴァイが先を促す。 「次はもっと、うまくやるから」 「ふざけんな」 次なんか来るはずねえだろう。こんな事、一度きりで御免だ。 そう言ったリヴァイが迷子のように不安そうな眼をしているから、私は力なく笑った。私はいつかこの人を、永遠の迷子にするんだろう。決して避けられない未来、近いうちに、私はこの人を置いていく。 その時もこの男は、こうしてただ、私の目覚めを待つんだろうか。 26 告白 「髪を切って染めて外見に気を配ったりしてさ」 「……やめて」 「ネイルサロンにも通ったりしてねえ! 相手はの指先なんかこれっぽっちも気にしてなんかないのに!」 「臨也、」 「新しい化粧品を買って、ピアスを変えて、あとは何があったっけ? ああそうだ、」 「臨也!」 耐えられなくなって私は叫んだ。ひとつひとつ臨也が言葉を重ねるたび、まるで罪状を読みあげられているような気分になる。こんなことをして、あんなことをして、――どんなことをしても、あの人は、私が好きなあの人は、私の事なんか好きにならないのに。 「ようやく気付いたのかな? どれだけ自分が愚かな事をしてるかに、さ」 私は臨也の言葉に、はじかれたように顔をあげた。気付いた、だって? 「……馬鹿にしないでよ」 臨也はにやにやと笑っている。私はふるえる指先を握りしめて臨也をきつく睨みつけた。今さら気付くことなんか何一つない。だって、 「そんなの、最初から解ってるわよ」 どんなに外見を変えて、仕草に気を配って、かわいい女の子になろうとしてみたって。あの人は私を見ない。私を愛さない。私を選ばない。知っていた、解っていた、それでも何かしていなければおかしくなりそうだった。そうやってかろうじてでも踏みとどまっていれば、死を待つだけの私のこの感情だって、きっといつかどこかで報われる。そんな期待を、していたかった。 「かわいそうな」 まるで愛をささやくみたいに臨也は私の名前を呼ぶ。かわいそうな。哀れな言葉を前につけて。 「でも俺はそんなお前が嫌いじゃないよ」 足掻く姿は無様だけれど生きている人間に許された抵抗だからね、人間らしくて、俺はすごく好きだなあ。 こどもみたいに無邪気に笑って告げる臨也を、私は鼻で笑った。 「まるで愛の告白みたいね」 「当然だろ?」 だって俺は人間を愛してる。臨也はにっこり笑んで、もう一度私の名前を呼んだ。 「ずっとそうやって醜くもがき続けているなら、俺はお前を一生愛するだろうね」 27 許す 私はその夜したたかに酔っていて、宮地くんはおそらく素面だった。危ないから途中まで送ってってやる、と言って先に歩き出す背中。いつもだったらもっと早く歩けるくせに私に合わせてくれる優しさ。並んで歩くたび、飲み会でついた煙草の香りに紛れて宮地くんの香水の匂いが少し届く。 「宮地くん見て見て、満月。」 「解ったから前見て歩け。上向いてんじゃねえ転ぶぞ」 宮地くんがまじめに言うのがおかしい。「転びません〜」と妙な拍子で返すと、「転んでも助けません〜」と宮地くんが何の抑揚もなく同じ調子で言う。本当は手を差し伸べてくれるくせに。それが反射だって、相手が私じゃなくて他の女の子だって同じようにするって解っていても、私はきっと、ときめいてしまうんだろうなあ。 「蛍光灯みたいだねえ」 「発想が貧困。0点。」 「はいじゃあ宮地先生の回答〜」 「ハードル上げんな刺すぞ」 「上げたの自分じゃん」 あまりにも自分中心の考えがおかしくて笑う。こういう奴なんだよ。こういう奴なのに、どうして好きになっちゃったかな。恋をしてからずっと考えている事だけれど、今日も相変わらず答えが出ない。私が笑い声に恋慕を隠している間、宮地くんはただじっと月を見つめていた。 「……本当はあっち側に世界があって」 「うん?」 「そこから漏れ出てる光が月のかたちになって見えるだけ」 なんてな。そう言って宮地くんはさっさと歩きだす。恥ずかしいからかちょっと早足で、2歩3歩と進むうちにどんどんと距離が広がっていく。やだなあ、もう。どうして彼を好きになっちゃったんだろう。こんなにも好きなのに、どうして届かないんだろう、どうしてうまくいかないんだろう。どうして、宮地くんの好きな人は、宮地くんを一番にしないんだろう。 「……すばらしい」 「うっせ。忘れろ」 「忘れなーい」 冗談めかして口にする。宮地くんはきっとこんな会話、すぐに忘れてしまうんだろう。だけど。宮地くんが美しい視点で世界を見ている事、その言葉、この距離。宮地くんにとっては何でもなくても、私にとってはかけがえのないものなのだ。その先に何もなくて、この恋が実る日がない事を知っていても――それでも。 「好きだよー、宮地くん」 嘯くように口にする。「酔っ払ってんじゃねえよ」と宮地くんは軽く私の頭を小突いた。そうだね。酔ってなきゃ、酔っているふりをしていなかったら、こんな事とても言えないよ。宮地くんにとって私の言葉なんて何の意味もなくて、明日には忘れてしまうって解ってなかったら、言えない。 許される状況を作り出さなきゃ、私はきみに一言、好きだって告げる事もできないんだ。 28 寄り添う 白いてのひらと子供のようにちいさな指先。皮膚は固く鍛えられていた。振り返った時に揺れた髪の毛。光を受けて輝くところも、今のように室内のランプの灯を受けてきらめくさまも、何度も見てきた。髪よりも少しだけ濃い色をしたまつ毛、ふちどられた瞳、少しだけ見開かれているのは驚いているから。自分が急に手を取って引きとめたからだ。 何か話したい事があったわけでもない、理由などどこにもなかった。しかしリヴァイを置いて遠ざかるその背を見ていたら、引きとめなければいけないような気がした。はリヴァイが掴んだままの手首にゆっくりと視線を落とす。瞳で理由を問うの姿を、リヴァイは見ないふりをした。いまは何を尋ねられても明確な答えを出せそうにない。 「……リヴァイ」 しずかな声が部屋の中を通り抜ける。なんだ、と返しながら、リヴァイはてのひらに伝わるの脈拍だけを追いかけていた。 「どうしたの」 さびしいの? 尋ねる声は静かで、落ち着いていて、どこか間が抜けている。さびしい、だなんて。しばらく考えた事もない。しかし。 「……お前がそう言うなら、きっとそうなんだろう」 「待ってよ。あなたの事でしょう?」 「俺についてはお前のほうがよく知ってる」 「嘘ばっかり」 知らない事、解らない事ばっかりだわ。苦笑交じりにが呟く。 「あなたはてのひらも大きいのね」 ながい間ずっと一緒にいたような気がするけど、そんな事だって今日初めて知った。そう呟く。 「知らない事ばかりだわ」 「……そうだな」 それから、知ったつもりになっていた事も、あるな。リヴァイはそう続ける。の手首の細さなど、今、初めて知った。 「お前はさっき、寂しいから、俺がこうしていると言ったが」 「ええ」 「どうやら違うらしい」 「理由が解ったの?」 聞かせて。は尋ねる。その瞳、そのすがた、手首、伝わる熱。さびしいから、というのは答えに一番近いはずれなのかもしれない。だけど俺はいま、さびしいのではない。ただ、恋しいのだ。答えるかわりにリヴァイはてのひらに力を込めての体を引き寄せる。抱きしめると少しだけ低い位置に肩が来るという事も今日初めて知った。リヴァイ、と焦ったような声で名前を呼ばれる。 明日にも失われるかもしれないものすべてを腕の中に隠して、リヴァイは壊れものを扱う時のようにそっと彼女の名前を呼ぶ。 きっとはそれだけで察してくれるだろう、この答えを共有してくれるだろう。それに、言葉にしたら何かが失われてしまうような気もする。だから、リヴァイは何も言わなかった。少なくともいま腕の中にいるには通じていたし、それでいいと思っていた。 後になって何度も、この夜の会話を思い返す事になるのを、この時のリヴァイはまだ知らない。 29 押し倒す 昔に犯した過ちを受け入れなければならないのだと、頭では理解している。「私たち、何もわかっていなかったんだねえ」。そう言って昔の自分たちを笑い飛ばさなければいけないのだと、解っているのに。 狡噛は何も言わない。ただいつもみたいに、困ったように笑って私を見ている。私の前に立つと、狡噛はいつもこうして笑う。もっと正確に言うならば、佐々山がいなくなってからというもの、狡噛は私を持て余しているみたいだった。 それは、約束とも呼べないものだった。佐々山がいなくなって、私と狡噛が残されて、それからすぐに交わした会話。いま思い出してみたってあの時の私はどうかしていたし、私の提案を受け入れた狡噛にしたってきっとどこかいかれていた。解っているのだ。だから私はあの約束を破り捨てて、笑って言わなければいけない。もうあんな言葉、忘れていいよ。そう言わなければいけないのだ。解っている、解っている、解っているけれど。 「私以外の人間に殺されたら許さないって、私、言ったわ」 自分でもぞっとするような声が出た。切羽つまっているのでも、泣きそうでもない。なにも響かない声だった。 「約束したじゃない」 潜在犯を確保するときのように、狡噛の上にのしかかったまま、私はそう呟いた。私の下敷きとなった狡噛の体にはまだ傷跡が残っている。表には出さないけれどきっとひどく痛む事だろう。もしかしたら傷口が開いてまた出血しているかもしれない。だけどどうしたって退く気にはなれなかった。 佐々山が私たちの知らないところで私たちの知らない人間によって奪われた時。こんな事は金輪際ごめんだと思った。それどころか私は、手ひどく裏切られたような気さえしていた。あんなにも私の中に入り込んでおいて、勝手にいなくなるなんて許せない。そう思った。だから私は狡噛に言ったのだ。 ――狡噛。あなたは、私以外の人間に、殺されたりしないで。 狡噛はあの時もきっと、いまと同じ顔をしていた。もう、今の私には、思い出せないけれど。 。狡噛は私の名前を呼んだ。それから、私の背中に腕をまわしてきつく抱きしめる。まるで恋人にするみたいに。なされるがままに私は狡噛のからだに寄り添った。あたたかくて、生きていて、だけどそのからだには私以外の手によってつけられた傷がある。もう少しで死んでいたかもしれない傷が。 その気になればいくらでも狡噛は私のからだをどける事が出来るのに、狡噛はそうしなかった。傷口は痛むだろう。だけど狡噛は何も言わない。ただ一言、「悪かった」とだけ言う。「約束を忘れていたわけじゃない」。そう言って、私を甘やかすみたいに、背中を撫でる。その生ぬるさ。狡噛は馬鹿だ。私を突きとばせばいい、突っぱねればいい、そうすればきっと言えるのに。 あの時の私たちは浅はかだったねえ、と。そう言わなければ、ならないのに。 30 終幕 ひどい潔癖のくせにどこもかしこも触れたがる。この男が私のからだで見た事がない部分など内臓ぐらいしか残っていないだろうし、それが晒される日だってきっとそう遠くはない。自分の事ながら冷静にそう思う。 「ねえ、リヴァイ」 短い黒髪に指を通しながら名前を呼ぶと眼差しだけが持ち上がる。リヴァイ。もう一度名前を呼んだ。あと何回呼べるかも解らない。 「たとえば私が巨人に食われるとしてね」 そこまでを言葉にするとリヴァイは伸びあがって私の鎖骨を噛んだ。予行演習みたい。甘く、鋭く、少しだけ痛いのは私の不謹慎な言葉を咎めているのだろうか。 「痛い」 「だろうな」 「ひどいわ」 沈黙。リヴァイは少しだけ傷ついたのかもしれない。少なくともこんな状況下でするようなたとえ話じゃないのは確かだ。だけど抱き合っているからって幸せな話ができるほど私たちは呑気でいられない。 「聞いてよ。私が食われてね」 今度はわき腹を食まれる。与えられる痛みは、リヴァイがいま私の言葉で受けているそれと同じ分量なんだろうか。 「たとえば指先しか残らないとするじゃない」 そこまで話すとリヴァイは私の指先を取って爪にかるく歯を立てた。 「リヴァイはそれが私の指先だって気付くかなあ」 「解るわけねえだろ」 阿呆か。リヴァイはひどい顔をして私の指の付け根に思いっきり歯型を残す。明日ハンジかエルヴィンに見つかったらきっと冷やかされる。いや、あの二人はやさしいから、私たちの戯れを笑って見過ごしてくれるかもしれない。 「お前だって解らねえだろう」 たとえば、俺がただの一部分に成り下がったとして。 リヴァイは情事の最中とも思えないぐらいに冷えた声で呟いた。私はその言葉に思わず笑顔になる。首に腕を絡め、引き寄せて、耳元でささやく。何よりも深い愛を込めて。 「解るわけ、ないでしょ」 だから間違ってもそんな風にはならないでよ。 言えない言葉と共に触れたリヴァイの唇は荒れていて、私にはそれがとても愛おしい。 誰のものとも知れない指先を拾って、それを私だと思って慈しむような真似をするような男ではないと知っている。だから私がこんな事を言うまでもないのだけれど、だけど。この男は時々、途方もないほどに優しくふるまうから、心配になる。 リヴァイ。何度も何度も、繰り返し名前を呼ぶ。 「私がいなくなったら」 そう呟こうとするたび、リヴァイは私の体を揺さぶって無理やり言葉を途切れさせる。結局最後まで口にできないままに何も考えられなくなって、またひとつ朝が来て、おしまいが近づく。 あなたはいったい、何にそんなに怯えているんだろう。 |