制限時間内に落書きしてね。そう語りかける機械に対し臨也さんはどこか神妙に頷きながらペンを取り、それをしげしげと見つめた。この人は宇宙人と遭遇した時でもこんな顔をしないだろうな。そう思っているうちにどんどんと時間は減っていく。

 「こういうのって大体なんて書くの」
 「さあ……名前とか、日付とか、ですかねえ。あ、初プリとか。」
 「何それ。フランス語?」
 「……あ、エスプリのことか。いえ、初めてのプリクラ、略して」
 「ふーん」

 まあ何でもいいんだけど、と言いながら臨也さんは適当にスタンプをぽいぽい画面に乗せていく。私の顔を隠すようにして猫のスタンプを押すのを見て、私はさして感情のこもらない声で「なんてことを」と詰ったが、臨也さんは構わずにこにこと笑っていた。邪気のない、だからこそ性質の悪いこどもみたいに。消したところで何度でも繰り返されるのは眼に見えている。だから消す代わりに、報復のように臨也さんの顔のまわりをきらきらとしたスタンプで覆っておいた。そうすると臨也さんの顔だけが宙に浮かんでいるみたい、まるで、

 「はは、生首みたい」
 「それで喜ぶセンスってどうなんですかね。あ、終わりだ。」

 分割数を選んでね、という言葉で、完全に臨也さんはプリクラに興味を失くしたようだった。「適当にやっといてよ」と言って、先にブースから抜け出してしまう。いつもの事なので私も今さら焦ったり慌てたりなどしない。「解りました」と、おそらく聞いていないだろう背中に告げて、二人向けの分割の中からオススメと書かれたものを押した。ブースから出たら臨也さんは帰ってるかもしれないと思ったが、混雑するゲームセンターにたむろする若者たちを臨也さんは楽しそうに、そして同時にひどく退屈そうに見つめていた。

 「できた?」
 「あと1分ぐらい待てば印刷されますよ」
 「ふうん」
 臨也さんは高校生のカップルの女の子に向けて完璧な笑顔を向けながら答える。臨也さんの視線に気付いた女の子が頬を染め、彼氏だろう男の子がむっとしたように臨也さんを睨み、そして負けを認めるように眼を逸らすのを私はぼんやりと眺めていた。後で二人が喧嘩をしませんように、と無責任な祈りを胸の内で繰り返す。そのうちに出来あがったまぬけなプリクラを機械から取り出し、私はそれを臨也さんに渡した。

 「どうぞ」
 「いらないの? レアだよ、俺の写真」
 「うーん……。別に、写真なんか見なくても、わりと頻繁に会ってますし」
 「そ。これで分けるの?」
 臨也さんはゲームセンターに備え付けられたハサミを右手で動かしながら尋ねる。ピンク色のハサミ。シュールだった。

 「そうです。ほら、あの子たちみたいに」
 私は、はす向かいのテーブルでプリクラを分け合っている女子高生を指しながら答えた。臨也さんは、へえ、と空気の抜けたような相づちを打ち、それからにやりと笑った。嫌な予感。

 「えーい」
 棒読みの掛け声とともに臨也さんがプリクラを切る。切り刻む。私の顔も、自分の顔も、先ほど書いたばかりの落書きも、全部。

 「うわあ……。私が繊細だったら泣いてますよこれ」
 「泣かないんでしょ?」
 「泣きませんけど、いい気分はしません」

 私の目だった部分、無意味なピースサイン、あまりにも書く事がなかったので書いた互いの名前。全部がこまかく切り刻まれて宙を舞う。すらりと伸びた指先から降り注ぐそれらは雪にも見えた。でもゴミだ。周囲の女子高生たちが「え、なにあれケンカ?」「やばくない?」などと騒いでいるのが聞こえてうんざりする。ケンカできるような間柄じゃないのだと大声で主張したら彼女たちは黙り込むだろうか。
 私と臨也さんは、何でもないのだ。臨也さんのこうした行動はただの気まぐれで、私にしたって怒るほどこの人に何らかの情熱を注いでいるわけでもない。泣くのも怒るのも見当違い。できるのは、ちくりと嫌味にもならない言葉を返すことぐらいだった。

 「気はすみました?」
 「まあまあ」
 「じゃ、帰っていいですか? 明日、小テストがあるんです」
 「小テスト? 何の?」
 「英語」
 「教えてあげようか」
 「臨也さん、常日頃からロシア語はできるけど英語はできないって言ってるじゃないですか」
 「あれ、覚えてた」
 「臨也さんの言葉だと、忘れた事の方が少ないんじゃないかなあ」

 そうしないといつ地雷を踏むか解らないし、という続きは心の中でだけ。私の言葉を受けてかどうか、臨也さんはそれまで休みなく動かしていたハサミを止め、「限られた脳のキャパシティを無駄な事に使ってるね」と、自分の事なのに無駄だと言い切った。自虐でも自嘲でもなく、本当に単なる事実のようにそう呟く。この人は自分の事をとても大切に扱いながら、時々こうしてひどくないがしろにする、と気付いたのはつい最近のこと。

 「もっと有意義な事に使いなよ」

 だから、これから英語で埋めるんですってば。
 そう返そうとして、だけど、私は口をつぐむ。なんとなく、臨也さんが返事を必要としていないように見えたから。それを見て、臨也さんがふっと笑う。そして、コートのポケットからわざとらしく携帯電話を取り出し、「あ、もうこんな時間じゃん」と、やけに幼い口調で場を取り繕った。実際に予定があったのかもしれないが、少なくとも私には取り繕ったように見えた。

 そして、学校の前で私を捕まえて無理やりにゲームセンターに連れてきた時と同じように、唐突に私の目の前から消える。
 いったい何をしに来たんだろう。何が目的だったんだろう。考えても仕方がないし、答えはきっと臨也さんにしか解らない。

 溜息をついて、過ぎ去った嵐をどうにか呑み込んだのち、私は臨也さんとは逆方向に向かって歩き始める。何も考えなくていいように、臨也さんが決して聞かないだろう音楽で心をごまかしながら。そうして家についてから学生鞄をあけると、切り刻まれたプリクラのかけらが入り込んでいるのを見つけ、私は思わず顔をしかめた。いったい何を映したのか、それすら解らないほどに小さな欠片。しばらく見つめ、私はただのゴミでしかないそれを、定期入れのポケットの中にしまいこんだ。

 なんで、そんな事をしたんだろう。自分でもうまく説明ができなかった。
 ――説明できないのは、それだけでは、ないけれど。


 苦し紛れのように英語のテキストを開いてみたけれど英単語なんてひとつも入ってこない。浮かぶのは臨也さんのことばかりで、こう表現するとまるで恋をしているみたいだけれど、残念ながらそんなに幸せなものじゃない。
 どうしてこんな事になってしまったんだろう。ただの知り合い、女子高生と情報屋、臨也さんと私。文字にすればひどく簡潔に終わるのに、私はここに含まれた意味ばかり探している。現代文の曖昧な設問みたいだ。この時の主人公の気持ちを答えなさい、この時のふたりの関係を文中から5文字以内で抜きだしなさい。だけどいったい誰に解るって言うんだろう、自分の気持ちなんて、言葉にされない関係なんて、どうして解るだろう? 答えのない問題とずっと向き合ってきたけれど、そろそろ限界だ。

 いつになれば、飽きてくれるんだろう。
 カチリ。シャープペンシルの芯を出しては戻し、出しては戻しを繰り返しながら考える。飽きたらあの人は私の事を忘れるんだろうな。その他大勢の女子高生と一緒になって、そのうちに記憶もすべて消えて、私だけが臨也さんを覚えている。飽きたら、もう携帯電話にも連絡が入らなくなるし、今日みたいに校門で待ち伏せされる事もなくなる。常に携帯電話を気にする事もない。着信に気付かないで、臨也さんから「きみが俺の電話を無視するなんて生意気」なんて嫌味を言われることも、整合性のない臨也さんの発言を気にする必要だってなくなるんだ。
 早く、そうなればいいのに。そうすれば、理由なんか探さなくてすむ。忙しいと口にするあの人が、わざわざ時間を見つけて私に会いに来る理由を、考えなくてよくなる。早く飽きてくれればいい。私の事なんか何一つ知らない臨也さんに、早く戻ってほしい。

 そうじゃないと、自分が本当にそれを望んでいるのかが、解らなくなる。







 臨也さんの部屋はコーヒーの香りしかしない。コーヒーは飲めないのだと何度も繰り返し伝えたはずなのに、この人は毎回忘れたように「飲めないんだっけ?」と私を笑う。最初のうちはまじめに対応していたが、最近はもう面倒で、「別に、臨也さんが2杯分飲むだけですからいいんですけど」と負け惜しみのような事を言っていた。でも、それもたぶん、今日で最後。
 返ってきた英語のテストは散々で、右上に赤字で書かれた点数を見たときに思ったのだ。もうこんな事は終わりにしなくてはならない。何の関係もない、どんな名前もつけられない人に振り回されるのは、もう終わりにしなくては、と。電話を待つのも、もしかしたら特別なんじゃないかと期待をするのも、落胆をするのも消沈するのも、疲れた。その先にハッピーエンドが待っていると少しでも望みがあれば、きっとこんな心の動きも楽しめたのかもしれない。だけど相手は臨也さんだ。臨也さんだ、私に恋をするはずのない人だ。たとえ私が、どんな事を想っていても。

 臨也さんはいつもみたいに黒子じみた服に身を包んで笑っている。まるで私がこれから何を言おうとしているのかをすべて知っているみたい。息をひとつ大きく吸って、吐いて。意を決して口を開く。

 「もう付き纏うのはやめてください」

 口にしながら、なんだかひどく思いあがった事を言っているような気がした。とっても陳腐で、なんだか的外れな言葉だと自分でも思う。きっと臨也さんだってそう思っている事だろう。鼻で笑って馬鹿にして、きっとこの会話も、これまでの出来事もすべて終わらせてくれるに違いない。そう思って言葉を待つ。

 「君は馬鹿だね」

 返答は、たった一言。何度も言われた言葉だったのに、今日だけは自分でも驚くほどに胸に刺さった。

 「……どうせ、馬鹿ですよ。だから、臨也さんが私に構う理由なんてないでしょ」
 「本当に救いようがない馬鹿だなあ! 君が探している答えは簡単で、単純で、事実そこに存在しているのに見ようともしないんだからね」
 「……何の話をしているんですか?」

 わけがわからなくなって私はそれこそ馬鹿正直に尋ねた。私が探している答え、なんて、どうして臨也さんに解るんだろう。解るわけがない。臨也さんは相変わらずにやにやと笑っていた。それから、「馬鹿な君のためにヒントをいくつかあげるよ」と嘯いて、芝居がかった動作でひとつひとつ答えを提示していく。

 「まず一つ。俺は暇じゃない」
 「はあ」
 「一つ。俺は情報屋で、写真なんかは出来れば遠慮したい代物だ」
 「……はあ」
 「まーだ解らないかなあ」

 私の困惑をよそに、臨也さんは楽しんでいるようだった。

 「俺には君以外にも取り巻きがいるけど、その誰とも写真やそれに類するものを撮った事はないよ」
 「……えっと?」
 「馬鹿な君にも解るようにもう少し言葉を添えるなら、その誰とも撮りたいとは思わないし、ましてや自分からは言いださないだろうね」

 ……ええと?
 私は必死になって頭を回転させる。この前のテストでだってこんなに動かさなかっただろう。そうして私の頭はうすうすひとつの答えを弾きだそうとしていたけれど、これは、外したら相当居心地が悪い事になる。私の葛藤や戸惑いを見透かしたように臨也さんはにっこりと笑っていた。私が息をつめたのを見ておかしそうに尋ねる。

 「それで、答えは解った?」
 「……臨也さんって、もしかして私の事、好きだったり……します?」

 口に出すのと同時にさっと頬が熱くなる。臨也さんはそんな私をおかしそうに見つめるだけで何も言わない。あ、外した。そう思って、慌てて「すみませんそんなわけないですよね」と必死に言い募ろうとする、それよりも早く。

 「いまごろ気付いたの?」

 やっぱり君は、どうしようもない馬鹿だねえ。笑いを交えてそう続ける臨也さんに、私はほとんど詰め寄る勢いで立ち上がって尋ねた。

 「え、ええ、なんで?」
 「理由なんて尋ねられたところで答えられないよ。だって俺にも解ってないんだから。」
 なんでだろうねえ! 顔だって平凡で性格だって特筆すべきところは何もないのに、どうしてかなあ。

 臨也さんは私の顔を見つめてそう言う。楽しんでいる、みたいだった。予想外の落とし穴にはまった自分を。そして、なんだか、私の事を慈しんでいるようにも見えた。たとえば宝石を収集する貴婦人がお気に入りの石を磨いている時みたいに――、私の事を、ほんとうに特別に想っているみたいに、見えた。

 「これだから人生って面白いよね」
 「……そうですね」
 「それで」

 今度は臨也さんが詰め寄る番。こんなに近づいた事は今までにないんじゃないか。黙っていれば綺麗な顔をしているのに、それが意地悪く歪む。

 「俺の答えは見せたんだ。君の答えは?」

 コーヒーの匂いのはるか遠く、臨也さんの香水の匂いがする。今までには名残りを惜しむのが嫌で、少しでも制服なんかに移ったらすぐに消していた香り。もうこれから先、そんな事をしなくてもいいのだろうか。切り刻まれたプリクラのかけらを宝物みたいに大切にしまっておかなくても、いいんだろうか。


 。促すように臨也さんが私の名前を呼んだ。答えなくたって、くやしいことに臨也さんは既に正答を知っている。